右近検地と土豪一揆

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慶長五年(一六〇〇)九月の関ヶ原の戦いののち、信濃の諸大名の領地は家康により安堵(あんど)された。北信濃の森右近忠政はさっそく領政に着手した。同年十月の水内郡北条(きたじょう)村(飯山市)の検地を皮切りに、慶長七年八月から十月にかけ北信濃四郡で総検地を実施した。家臣を総動員した大がかりなもので、検地の結果、四郡の総石高一三万石が一八万石あるいは一九万石にふくれあがる結果を打ちだした。「右近竿(うこんざお)」とよばれ、きびしい検地で知られている。

 森検地は徳川政権樹立後の信濃で最初の検地であり、全国でも早い時期の検地であった。徳川氏の検地は、慶長年間におこなわれた代官頭伊奈(いな)忠次の備前検地や代官頭大久保長安の石見(いわみ)検地に代表されるが、太閤検地の基準や方法を継承しながらも、検地竿(間竿(けんざお))の長さを六尺三寸(約一九一センチメートル)から六尺一分(約一八三センチメートル)に短縮している。これらと同じ時期におこなわれた森検地は、徳川検地の一環として六尺一分の竿を用いて竿入れ(検地)をしたと思われ、また大久保長安の石見検地方式をとりいれた可能性もある。森検地は、のちの元和・寛永(一六一五~四四)、寛文・延宝(えんぽう)年間(一六六一~八一)におこなわれた北信濃諸領の検地の基礎となった。

 検地帳は一八ヵ村分が残っている。検地帳は一筆ごとに地字(ちあざ)、四等級に分けられた田畑の等級、反畝歩(たんせぶ)であらわされた面積、分米(ぶまい)、名請人(なうけにん)を記し、帳の最後に分米の集計を掲げている。太閤検地の形式と同様であるが、田畑の等級ごとの石盛は太閤検地にくらべ一斗から二斗ほど引きあげられていて、田方は上田一石五斗、中田一石三斗、下田一石一斗、下々田一石、畑方は上畑一石二斗、中畑一石、下畑八斗、下々畑六斗で、屋敷地は上畑と同じ一石二斗であった。石盛は四郡全村で共通していた。六尺一分の短い竿で田畑を実測したため、耕地面積は当然これまでより増加する。この面積増加と石盛の引きあげによって算出される石高は増大する。

 森検地ではまた、四年前につくられた太閤検地帳からもれ落ちていた新田や隠し田を徹底的に調べあげた。水内郡岩草村(いわくさむら)(七二会)では「備前時帳はずれ」と肩書きされた田畑が一二筆、三石四斗にのぼる。石川(いしこ)備前守光吉による慶長三年の検地帳にもれていたものである。また、「とり立」とある田畑が六筆あり、このほか他の村には「当おこし」(相之島村、須坂市)や「うちおこし」(南条村、坂城町)という肩書きのある田畑が多数みられる。いずれも開墾された新田で、これをすべて検地帳に登録し、さらに主(ぬし)なしの荒畑も年貢賦課の対象となる名請(なう)け地として記載して、村に命じて再開発させた。「荒」「荒畑」や「永不作」と記される荒れ地が各村で多数見うけられ、おおむね「ぬしなし(無主)」である。中之条村(坂城町)では「無主」の地が七三一筆中一五七筆と全体の二一パーセントにものぼる。これらは、持ち主が上杉国替えにしたがって会津へ去って荒れ地となった土地と思われるが、あるいは、収奪に抵抗して逃散(ちょうさん)した百姓の土地、さらに戦国時代からつづく荒れ地も考えられる。

 不分明な村の境界をあらためて明確にきめる村切も、慶長三年の検地に引きつづいておこなわれている。高井郡相之島村と小島村(須坂市)は千曲川の東河原の土地の帰属をめぐって以前から争ってきたが、慶長七年九月十一日に竿奉行により所属をきめられ、このときの検地帳に記載されることになった。新しい村の創出や編成の結果、北信濃四郡の村数は慶長三年よりも一一ヵ村増えた。また森検地では、北信濃の林野にはじめて石高がつけられ、山年貢取りたての基礎となる草山(くさやま)検地帳(年貢帳)を作成している。

 市域にあたる岩草村(七二会)と中俣(なかまた)村(柳原)、加賀井(かがい)村(松代町)の検地帳をみると、名請人は所持高一〇石以上のものが一〇~一六パーセントを占める。ことに岩草村では三九石六斗、中俣村では二七石三斗、加賀井村では二四石五斗もの石高を所持するもと地侍と思われる百姓がいて、いずれも上田・中田・上畑などの地味のよい土地と、広い屋敷地をもっていた。反面で石高で五斗に満たず、面積で五畝未満の零細百姓が中俣村で一一パーセント、加賀井村で八パーセント、岩草村では一八パーセントもある。村内で大多数を占めるのは屋敷地をもたず、請け高が数石以下の百姓であった。またごくわずかではあるが、数石以下の所持高ながら屋敷地をもつ百姓もいた。これは三ヵ村以外のどの村でも共通する特徴であって、百姓が上・中・下の階層から成りたっていることを示している(表1)。


表1 慶長7年(1602)水内郡岩草村・中俣村、埴科郡加賀井村の所持高階層

 屋敷地をもち一町以上の土地を所持する少数の百姓は、大規模な土地を自作経営のほか請作(うけさく)人を使って耕作させる地主的百姓である。かれらは年貢と屋敷にかけられる夫役(ぶやく)を負担し、耕作に必要な用水権や林野入会(いりあい)権をもち、村の運営に参加できる本百姓である。それとは対極的に零細な耕作地を名請けしながらも屋敷地をもたない百姓は、地主の屋敷地に借地・借家住まいをするほかなく、なんらかの形で地主に隷属して自分の名請け地のほか地主の請作地を耕作していると思われる。このほかに検地帳には名前の出てこない百姓もおおぜいいたであろう。中俣村では「平右衛門」と肩書きされた「清二郎」という分付(ぶんづけ)百姓がいる。この清二郎は屋敷地をもたず分付主である平右衛門の土地を請作する百姓とみることができよう。分付記載は稲積(いなづみ)村(若槻)、南条村・中之条村・網掛村(坂城町)、稲荷山(いなりやま)村(更埴市)、八重森村・栃倉(とちくら)村(須坂市)にもみられ、栃倉村には一人の分付主に六人の分付百姓がいる例もある。稲荷山村には一つの土地を二人の百姓が名請けする合地(あいじ)百姓もみられる。森検地では屋敷地をもたず本百姓になりえない分付百姓や零細な百姓でも、耕作者はみな検地帳に記載したとみられ、太閤検地のめざした小百姓の自立化をさらに推しすすめているといえよう。

 このほかに、「ろうにんノ与五郎」、「みわらろうにん 清右衛門」という名請人があり、帰農(きのう)したもと武士も百姓として土地に固定された。また、「かわや(皮屋)」「筆ゆい(筆結)」「めきり」「こんや(紺屋)」「せんどう(船頭)」など仕事をもつ人びとも、耕作地を名請けする百姓のひとりとして記載されている。夫を亡くした「後家(ごけ)」や「やもめ・やこめ」、「うば」などの女性も名請人として名を連ねている。これらはのちの検地帳にはみられない特徴である。

 以上のように、徹底した検地をおこなった結果、北信濃四郡の石高は大幅に増加した。森が信濃に入封したときの北信濃の総石高、すなわち慶長三年の検地高は、更級郡三万五六三八石五升三合、埴科郡一万四六三八石五斗一升九合、高井郡三万七一六九石一斗八升八合、水内郡五万二〇八七石五斗二升四合で、合計三七九ヵ村、一三万九五四三石二斗八升四合であったと推定される。これにたいして森検地は、慶長七年の「信州川中島四郡検地打立之帳」(『新史叢』⑪一九一~二〇三頁)から算出すると、更級郡四万五一四八石七斗八升八合、埴科郡一万八八三二石五斗一升九合、高井郡五万五三三五石一升九合、水内郡七万八〇九石二斗四升九合で、合計三九〇ヵ村、総石高一九万一五二二石五升五合であった。この打立帳には、前年の慶長六年に家康から寄進されていた善光寺領一〇〇〇石の長野・箱清水・七瀬川原・三輪の四ヵ村は当然ふくまれていない。更級郡では九五一一石、二七パーセントの石高増、埴科郡では四一九四石、二九パーセント、高井郡では一万八一六六石、四九パーセント、水内郡では一万八七二二石、三六パーセント、全体で五万一八七九石、三七パーセントの石高の増加をみた(表2)。


表2 慶長7年(1602)森検地による市域村々の石高

 石高増は年貢の増徴をもたらす。検地のあと百姓はきびしい取りたてにあい、多くの百姓が逃散(ちょうさん)した。「牧村根元記」(高山村 牧区有)によると、高井郡牧村の百姓は検地の結果、年貢や役儀の取りたてがきびしくなり、百姓をつづけることができず、「非人躰(ひにんてい)の身振り」で所持地を捨て村を立ちのいた。このうち一三人は、のち寛永七年(一六三〇)に村へ立ちもどり、荒れ地を切りひらき、そのときの領主の旗本小笠原忠知(ただとも)に森検地のやり直しを願いでている。残りの百姓は行方(ゆきがた)知れずと記しているから、森検地の結果、牧村ではさらに多くの百姓が逃散したと思われる。高井郡奥山田村(高山村)にも逃散の記録がある。安永七年(一七七八)の村指出帳(さしだしちょう)に、森検地のとき悪い土地の百姓のことごとくが逃散退転におよび、その後、元和五年(一六一九)入封の領主福島正則(まさのり)に村の困窮を訴え、土地相応の検地のやり直しがおこなわれたと記されている(高山村 奥山田区有)。

 また、検地に反対して北信濃の土豪層が一揆をおこしたという。一揆は慶長七年におこり、四郡を巻きこんだ大規模なものであった。ただちに鎮圧され、一揆の首領三人は鳥打峠(松代町)において磔(はりつけ)に処された。また、七〇〇人(三〇〇人とも三〇〇〇人とも伝えられる)の加担者をも同時に死刑にした(『松代町史』上)。前項でみたように、土豪一揆は慶長五年に上杉遺民によっておこされたと記すものもあり、一揆のおきた時期や一揆の具体的なことは確かではない。しかし、過酷な森検地によって権益を奪われる土豪層がこぞって検地に反対し、暴動をおこしたととらえるならば、この勢力の鎮圧によって北信濃の兵農分離はいっそうすすみ、百姓だけの近世の村の形成に拍車がかかったといえよう。

 慶長八年(一六〇三)二月六日、徳川家康は森忠政を美作津山(みまさかつやま)(岡山県津山市)に移した。森は四万九〇〇〇石を加増され一八万六五〇〇石となった。森検地によって打ちだされた北信濃の石高は一八万石あるいは一九万石となっていたので、じっさいには石高は変わらなかったことになるが、美作一国を領有する国持ち大名に昇格した。許されて新たに津山城を築いている。同じ日に、家康は北信濃四郡へ松平上総介忠輝(かずさのすけただてる)を入封させた。


写真5 森忠政が築いた美作国津山城 (岡山県津山市)