松平忠輝は文禄元年(一五九二)に浜松城(静岡県浜松市)で家康の六男として生まれ、滅亡した北条氏の重臣だった下野皆川(しもつけみながわ)城主(栃木県栃木市)の皆川広照(ひろてる)に預けられた。慶長四年八歳のとき、三河一八松平家のひとつで無嗣(むし)絶家していた長沢松平家を継ぎ、武蔵深谷(むさしふかや)(埼玉県深谷市)一万石を給された。同七年に従五位下・上総介(かずさのすけ)に叙任され、下総(しもうさ)佐倉(千葉県佐倉市)へ四万石で移り、このたび北信濃四郡に一八万石で入封した。入封当時わずか一一歳であった。養い親の皆川広照は補佐役・後見役として忠輝に付けられ(付庸(ふよう))、同じ日に忠輝領をさいて飯山城をあたえられ、高井・水内両郡北部の四万石を領した。
忠輝は同十年四月に家康とともに上洛(じょうらく)、参内(さんだい)し、従四位下・右近衛少将(うこんえのしょうしょう)に叙任される。これより川中島少将、のち越後に移ってからは越後少将とよばれたが、終始上総介ともいわれた。同十一年十二月に陸奥(むつ)仙台城主(宮城県仙台市)伊達政宗(だてまさむね)の娘五郎八(いろは)をめとる。忠輝の江戸屋敷のひとつは、江戸城内の龍口(たつのくち)(東京都千代田区丸の内)にあった。幼少のためほとんどを江戸に暮らし、十三年から十四年以降松城をおとずれ、寺社への領地寄進や家臣の知行安堵状(あんどじょう)に署名している。忠輝は海津・待城(まつしろ)と称されてきた城名を松平の松をとった「松城(まつしろ)」に改めたと伝えられる。なお、「松代」と記されるのは正徳(しょうとく)元年(一七一一)からである。
慶長八年二月、高遠城主保科正光と高島城主諏訪頼水(よりみず)が松城・飯山・長沼・牧之島・稲荷山の五ヵ城を森忠政から受けとり、城番として忠輝領の警護にあたった。忠輝の直属の家臣団の編成はおくれ、すぐに領地入りしなかった。それにかわって、家康側近の大久保長安が付家老(つけがろう)的な立場で忠輝領の北信濃一帯の基礎固めに乗りだした。長安は、雨宮忠長・窪田昌満・平岡道成・平岡良和らの甲府衆や、山村良勝(たかかつ)・原図書(ずしょ)・原孫右衛門らの木曽衆らの息のかかった配下の手代を巧みに使い、街道の整備や百姓の還住(げんじゅう)、新田開発、再検地など領政全般を差配した。三月二十八日の性乗寺(七二会)、四月一日の大安寺(同)・如法寺(若穂綿内)に掲げた禁制(きんぜい)を手はじめに、四郡内の寺領寄進などを手広くおこなっている。十一月に松城城は諏訪頼水から長安手代の雨宮・窪田に引きわたされた。
大久保長安は武田信玄につかえ、武田氏滅亡後は家康に登用された。慶長五年の東西決戦にあたり、東山道(とうさんどう)筋をいく秀忠軍にさきがけて、木曽谷・東美濃の制圧に才腕をふるい、豊臣方の兵站(へいたん)線を奪取することに成功した。家康の側近勢力として、多くの代官をたばねる代官頭(だいかんがしら)(大代官)として、築城・検地・灌漑(かんがい)治水・交通や鉱山などの整備や開発にたずさわる。代官頭は長安のほか伊奈忠次・彦坂元正・長谷川長綱の四人がいたが、とくに長安の働きはめざましかった。関ヶ原の戦いのあと、家康の意をうけ信濃国内の大名・旗本や善光寺の知行割りをおこなうほか、中山道(なかせんどう)と北国(ほっこく)街道の開通や用水の開削などをすすめ、信濃の国奉行的立場で信濃の支配を主導した。また諸国をまたにかけて活躍し、長安の支配地域は関東から甲斐(かい)・信濃・美濃・越後・佐渡に広がり、さらに伊豆(静岡県)・大和(奈良県)・近江(おうみ)(滋賀県)・石見(いわみ)(島根県)などにおよんでいる。その財力と権勢は並ぶものなく、天下の総代官という異名をもつ。慶長八年に石見守となり、石見鉱山の開発をおこなって、産銀量の激増をもたらし、石見鉱山開発にさきだつ同七年に、佐渡代官(金山(かなやま)奉行)として佐渡金銀山開削にたずさわっており、西洋の水銀精練法を取りいれた技術革新により飛躍的増産をもたらした。
産出された佐渡金銀を江戸や駿府(すんぷ)(静岡市)へ運ぶために、搬路としての北国街道の整備に力をいれている。森忠政は慶長七年十二月、北国街道の通行を牟礼(むれ)(牟礼村)から香白坂(かじろざか)(白坂峠、豊野町)をこえ、長沼(長沼)へと通らせ、善光寺へぬける横道の通行を禁じたが、長安も、慶長八年十一月に森の禁令とまったく同様の定めを出して、牟礼から長沼へと通らせ、長沼から布野(ふの)の渡し(柳原)で福島(ふくじま)(須坂市)に渡り、川田、松城をへて矢代(更埴市)にいたるコースを北国街道の正規の道とした。北国街道の公の道は、武田時代や上杉景勝のとき以来、海津・長沼を通る道ときめられてきた。軍用道路の確保と軍事的拠点の繁栄をはかるために、長安もこれを踏襲したのである。慶長十六年九月には、忠輝の家老らに長安も連署して、古間(ふるま)・柏原村・長沼・福島・矢代の従来認められていた宿場に伝馬条目(てんまじょうもく)を出したが、このときは新町(あらまち)(若槻)・善光寺町(長野市)・丹波島(更北丹波島)にも同じ伝馬条目を出し、はじめて牟礼から善光寺をへて矢代へ向かうコースを公認した。公街道の機能が軍事的側面から行政的、経済的側面に重きを移すにつれ、江戸への距離が短く、善光寺に通じるこの道も認めることになったのであろう。善光寺は川中島の戦い以来、本尊が流転を重ね、門前町は衰微をきわめていたが、慶長三年秀吉が京都から本尊を遷座させ、慶長六年に家康が寺領一〇〇〇石を寄進し門前町が活況を取りもどしてきた。善光寺の復興と門前町の活況がこの道を認める理由となったと思われる。
長安はまた、江戸城・駿府城・名古屋城などの築城資材を供給する家康蔵入地の木曽山・伊那山の木材生産にも才腕をふるった。その木曽山の百姓や人足への飯米(はんまい)の供給地としても、北信濃に早くから目をつけていた。慶長六年十月、木曽代官山村道祐(どうゆう)(良候(たかとき))に書状を送り、川中島・佐久・小県(ちいさがた)の米を一〇万俵入手することや、山から出す木材を森忠政ら諸大名に運ばせることの手配を命じている(『木曽古記録』)。北信濃が忠輝領になってからは、木曽衆の山村良勝(たかかつ)らを送りこんで、北信濃の米を木曽へ運ばせた。慶長九年には北信濃から米三〇〇〇石が木曽に運ばれて飯米にあてられている。同十一年の瓦木(かわらぎ)二万七六六八丁の江戸への陸路輸送には、信濃諸大名に千石夫(せんごくふ)(所領一〇〇〇石につき人足一人拠出)が課され、真田領・仙石領の人足とともに北信濃の一八万石分として一八〇人が徴用された(『信史』⑳二一九頁)。北信濃は木曽の木材生産の飯米の供給地であり、木材搬送の人足の調達地ともされていたことを物語る。
長安は慶長八年十一月七日、領内村々に一〇ヵ条の条目を出した。
①当年の年貢率は森忠政の取りきめにかかわりなく、村の実情によってきめ、年内に納めるように。
②年貢は米のかわりに金銀、わた(真綿)、くれない(紅花)、麻、雑穀など望みのもので納めてよい。
③百姓が迷惑することはいつでも目安(めやす)(訴状)で申しあげよ。
④代官・下代(げだい)に不正を働くものがあれば、遠慮なく目安で申しあげよ。不正を働く代官らは糾明(きゅうめい)してやめさせ、正しいものを代官に任じる。
⑤非分の枡(ます)で年貢を多くとる下代がいれば、その米俵を差しおさえ、百姓立ちあいのもとで蔵を封印し申しあげよ。その下代はかならず処罰する。年貢にかわるものを計量するさいも同様である。
⑥役人へのお礼銭・草鞋銭(わらじせん)などはかたく御法度(ごはっと)とする。求める役人があれば遠慮なく訴えよ。
⑦縄外(なわはず)れ・落地(おちち)(検地帳からもれた土地)があれば早々に申しあげよ。申しでたものには褒美(ほうび)を出す。
⑧百姓のなかに徒(いたずら)もの(耕作に精をいれず行いが悪いもの)で郷中を騒がすものがあれば、早々に申しあげよ。
⑨郷中に盗人・夜討ち(夜襲をすること)・毒飼(どくがい)(毒を盛ること)・火付けなどするものがあれば、聞きだし申しあげよ。申しでたものには褒美を出す。
⑩種貸し籾(もみ)の利子は五割であったが、これからは三割に下げる。
以上のように箇条書きした最後に、「これ以前に村から逃げだしていた走り百姓は村に連れもどして、荒れ地を開墾させよ」と結ぶ(『信史』⑲五四七~五四九頁)。戦国時代からつづいた戦乱で農村は疲弊(ひへい)し、そのうえ森忠政の検地と過酷な収奪にあい、走り百姓・失(う)せ百姓となるものも多かった。農民を慰撫(いぶ)し、代官の非道をあらため、百姓の還住(げんじゅう)をうながし、荒れ地を再開発して安定した農村をつくるという新しい領主の支配方針を領民にわかりやすく明示している。この一〇ヵ条の条目はこの年成立した江戸幕府の法令に通じるもので、北信濃では長安によって幕府の方針が体現された。このころから諸大名も類似した農民慰撫令を出しはじめるが、この長安の条目は信濃でもっとも早い事例である。
大久保長安は、条目発布だけでなく、じっさいに百姓の還住や新田の開発を推しすすめた。慶長九年に井上村(須坂市)の失せ百姓一七人がもとの土地へもどってきた。しかし、所持していた土地はすでに新たな耕作者のものになっていたため、耕す土地がなかった。長安は三月一日、井上村の肝入(きもいり)衆(村役人)に田畑の所持者をもとにもどすよう命じている。また、慶長十五年六月に丹波島村の太郎左衛門尉(じょう)に村の欠落者(かけおちもの)を召しかえすよう命じた。同年七月に熊坂村(信濃町)の次郎兵衛・久右衛門は新田を開きたいという願書を長安に出した。長安はこれを許し、三ヵ年のうちは新田の諸役を免じるので耕作に励むようにと命じている。このほかに慶長十年に前坂村(野沢温泉村)の検地、十二年に北条(きたじょう)村(飯山市)の荒れ地の切り開き(新田)検地をはじめ、越後・信濃両国にかけての再検地もおこなっていて、その見聞のため越後から信濃へと出向いている。さらに慶長九年には森忠政の草山年貢帳の山年貢に増し高を上乗せして、忠輝領の山年貢をきめた。
慶長九年八月、忠輝直属の家臣団がようやく北信濃へ入ってきた。八月六日に浄運寺(須坂市)にあてた諸役免許状は、松平信直(のぶなお)・松平宗世(むねよ)・花井吉成(はないよしなり)・山田正世(まさよ)の連署によって出されている。閏(うるう)八月、家康は四人に家臣の譜代(ふだい)(長沢松平家以来の家臣)・新参(しんざん)(旗本・御家人からの付(つ)け家臣)によらず役儀・奉公をぬかりなく勤め、家老らが合議によって執務せよ、また百姓が迷惑しないよう統治するように、などを記した五ヵ条の家中(かちゅう)条目を渡した。北信濃の各城には城代として、松城城(松代町)に花井、長沼城(長沼)に山田、稲荷山城(更埴市)に松平信直、牧之島城(信州新町)に松平宗世を配置し、この四人の年寄衆(家老)によって政務が執りおこなわれた。江戸家老として松平親宗(ちかむね)がいた。忠輝につけられた家臣団は長沢松平家の家臣のほか、新たに徳川宗家の旗本や御家人が送りこまれた。このため、忠輝の北信濃支配は幕府直轄領とほとんど変わりがなく、幕府統治の延長といえる。付け家老的立場の大久保長安は、松平信直ら家老衆が来てからも寺領寄進のほか街道の整備や年貢、新田開発など領政全般にたずさわっている。慶長十五年に長安が熊坂村の新田開発を許可したさい、自身の免許証文を渡し、「忠輝の年寄(城代ら)の証文は後日に取って遣わす」と書いている。このことからも、忠輝領は家康を背景に長安の主導性が大いに発揮された領政であったといってよい(図1)。
大久保長安は、慶長十八年四月二十五日六九歳で病死する。死後、不正な蓄財をとがめられ、家財没収のうえ遺子七人はすべて死罪、縁者も多数処罰された。長安の姻戚(いんせき)にあたる松本城主石川康長とその兄弟も連座し、同年十月に改易された。長安断罪には、幕閣の巨頭である本多正信(ほんだまさのぶ)・正純(まさずみ)父子と長安の庇護(ひご)者であった大久保忠隣(ただちか)の対立がからんでいた。また長安のキリシタン説、忠輝を将軍に押したてようとする陰謀説なども伝えられる。いずれにせよ、鉱山経営をはじめ請負制であることから当然生じる蓄財をも「不正」と断罪されたのは、幕府の官僚機構が整いつつあり、代官頭のような個人的力量にものをいわせ多くの権益をにぎる人物が不要になりつつあったことの象徴といえよう。