忠輝の越後移封と北信濃諸領の成立

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慶長十四年(一六〇九)九月、松平忠輝の家老山田正世・松平宗世と江戸家老の松平親宗の三人に付庸(ふよう)大名の飯山城主皆川広照が加わり、駿府(すんぷ)の家康に訴状をもって訴えでた。「上総介(かずさのすけ)は行跡荒々として言語絶したり」(『当代記』)と忠輝の不行状などを数ヵ条に書きつらねたという。忠輝の放逸(ほういつ)で常軌をこえた言動と、忠輝の深い信頼をうけた家老のひとり花井吉成の専横への抗議であったと伝えられる。江戸にいた忠輝は駿府にむかい、家康に弁明を申したてた。家康は皆川らを「我意振舞」と監督不行届で処罰し、広照は改易(かいえき)、十月二十七日山田正世は切腹を申しつけられ、残る二人は改易に処された(のち松平宗世は赦免(しゃめん)され忠輝家臣に復帰する)。忠輝家臣団は暗い空気に包まれたであろう。しばらくして新たな家臣として旗本や御家人が補充され、長沼城代に山田勝重、牧之島城代に鱸成世(すずきなるせ)が着任した。

 その五ヵ月のちの慶長十五年閏(うるう)二月三日、家康は松平忠輝を越後福島(新潟県上越市)に移封させた。越後は豊臣秀吉が上杉景勝(かげかつ)を会津に移し堀秀治(ひではる)を入封(にゅうほう)させてから、堀氏がその大半を領有していた。十五年閏二月重臣らの内紛から城主堀忠俊が改易となった。豊臣大名を排除したそのあとに、すぐさま家康は忠輝を移したのである。このころ忠輝の弟で家康九男の義直は尾張五三万石、一〇男の頼宣(よりのぶ)は駿河(するが)・遠江(とおとうみ)五〇万石、一一男の頼房(よりふさ)は水戸三五万石をあたえられており、北信濃一四万石の忠輝とくらべ、兄弟間で石高の均衡を欠いていた。家康は、十四年暮れに忠輝を近江(おうみ)(滋賀県)に移そうとしたが実現していない。忠輝への石高加増が急がれた。また加賀には一二〇万石の外様大名前田利光がいたため、関東の北壁を徳川一門で固めるためにも越後への忠輝移封が必要とされたのであろう。

 越後福島城とその支城は、堀氏から飯田城主小笠原秀政、松本城主石川康長、上田城主真田信之(のぶゆき)ら信濃の諸大名によって受けとられたのち、忠輝家臣団に引きわたされた。駿府にいた忠輝は閏二月四日駿府をたち、江戸にもどってから越後に入国している。家康は領知高が拡大した忠輝に、徳川譜代の家臣から新たな家老衆や家臣をつけた。松平重勝が家老としてつけられ、三条城(三条市)に城代として入り二万石の知行をあたえられた。稲荷山城代の松平信直は糸魚川(いといがわ)城(糸魚川市)城代二万石、長沼城代の山田勝重は村松城(長岡市)城代二万六〇〇〇石となる。また、堀氏の与力(よりき)大名であった村上城主(村上市)村上義明と新発田(しばた)城主(新発田市)溝口秀宣(みぞぐちひでのぶ)は忠輝の与力大名とされた。忠輝は北信濃の大半と村上領・溝口領を除いた越後をあわせ、五十数万石を領する大名となった。


写真7 福島城跡 (新潟県上越市)

 忠輝の本拠地が越後へ移ったときに、北信濃には新たな領主が入封した。慶長十五年に、堀氏内紛のいっぽうの当事者であった堀直寄(なおより)が、高井・水内郡内四万石で飯山城をあたえられた。直寄の弟堀直重(なおしげ)は高井郡内で六〇〇〇石をあたえられ、下総香取(しもうさかとり)郡矢作(やはぎ)(千葉県佐原市)二〇〇〇石とあわせて八〇〇〇石となった。同じ日に、堀一族の近藤政成が高井郡内五〇〇〇石と美濃五〇〇〇石の一万石を宛行(あてが)われた。

 以上の堀直寄領・堀直重領・近藤政成領以外の北信濃は引きつづき松平忠輝領で、松城城代の花井吉成が一手に管轄することになった。翌十六年八月二十八日、吉成は忠輝から北信濃に松城城付き領として二万石の知行をあたえられた。忠輝領では、重臣や上級の家臣の知行を土地で宛行う地方知行(じかたちぎょう)制をとっている。慶長九年九月に作成された北信濃四郡の草山年貢帳では、家老の花井吉成・松平宗世・松平親宗・松平信直に給された知行の山が記されている。右と同じ八月二十八日、忠輝は母のお茶阿(ちゃあ)に、権堂村(権堂町)、栗田村内(芹田(せりた))、中御所村内(中御所)、問越村(問御所町)、荒木村・千田村(芹田)をふくめて信越両国内に三〇〇〇石を給している。同じ日、家臣の山田将監(しょうげん)へ北高田村(古牧)ほか信越一五〇〇石と田子村(若槻)など五〇〇石をあたえ、安西(あんざい)文右衛門に南長池村(古牧)・北長池村(朝陽)など三〇〇石、如珀(じょはく)に北高田村内など五〇〇石を宛行った。

 忠輝の居城福島城は、堀秀治が春日山城から移って今町湊(いままちみなと)(上越市直江津)を制する位置に築城したものであった。日本海と二つの川にはさまれ水害常襲地であったため、家康は居城を内陸の高田に移させるよう命じた。慶長十八年夏からすでに築城の準備がすすめられていた。家康は十九年正月十八日、忠輝の舅(しゅうと)にあたる伊達政宗を普請総奉行とし、加賀の前田や奥羽・信越の諸大名、計一二人に手伝い普請をあらためて命じた。信濃からは上田城主真田信之、松本城主小笠原秀政、小諸城主仙石秀久(せんごくひでひさ)が命じられた。真田家では真田信之の嫡男信吉(のぶよし)の江戸屋敷普請がこのときおこなわれていて、信之も江戸にいた。信之は幕府から高田城普請の人足を差しだすよう命じられた。慶長十九年二月十二日に沼田と上田の家老らにあて書状を出し、「越後御普請の儀を申し付くべき候ところ、手の痛みさんざんにて候」と困惑の気持ちをのぞかせながらも、「公儀大切の儀に候」と早々に人足を差しだすよう命じている。二月十九日上野沼田(こうずけぬまた)(群馬県沼田市)・吾妻(あがつま)(同県吾妻郡)から足軽一〇〇人を江戸屋敷普請用に残し、給人以下二〇〇人を高田城普請に送りだすよう指示を出した。


写真8 袮津志摩守等宛真田信之書状 (長野市博蔵)

 夜に日をついだ突貫工事のすえ七月に高田城は完成し、忠輝は入城した。忠輝が越後に移ったとき、あるいは高田城が完成するにさいして、北信濃から高田へ寺院が移っている。長沼村の浄興寺のほか、慶長十六年に中山田村(高山村)の常敬寺、同二十年(元和元年、一六一五)に南条村(飯山市)の勝願寺(現瑞泉寺)と勝応寺、佐野村(山ノ内町)光勝寺、安田村(飯山市)流源寺などが移り、高田城下の寺町を形成した。