慶長十五年(一六一〇)に越後に忠輝の本拠が移ったあとも、北信濃の過半は忠輝領に変わりがなかった。長沼・稲荷山・牧ノ島の各支城の城代は越後の支城に移り、北信濃は松城のみとなる。北信濃一円の政務は松城城代の花井吉成がとった。慶長十六年八月二十八日「信州川中島内において高都合二万石を松城領として宛行う」(『信史』21九二~九三頁)と忠輝から松城城付き領二万石をあたえられている。しかし、北国街道への宿場条目などの主要文書は重臣らの連署によっており、重臣らの合議による政治は引きつづいている。
花井吉成は家康の小姓として出仕した。忠輝に付けられ、取りたてられて重臣の列に加わる。忠輝の異父姉を妻としたことから、忠輝や母のお茶阿の信頼もあつく重用された。また忠輝の甥(おい)にあたる息子の主水正(もんどのしょう)義雄も忠輝の信頼があつかった。吉成は大久保長安や忠輝の与力大名の村上義明・溝口秀宣とも姻戚関係を結んでいた。慶長十四年九月、前記したように忠輝重臣らが駿府の家康に訴えでて処罰される事件がおきたが、これも一因は忠輝の深い信頼をうけた花井吉成の専横への抗議であったと伝えられる。新井白石が書いた『藩翰譜(はんかんぷ)』は、花井吉成のことを「双(ならび)なき覚えにて、家のことつかさどり、介殿(すけどの)(忠輝)は他に家臣がいるにもかかわらず、吉成のいったことは何でも聞いた。よからぬ振る舞いが多く、家臣・領民は嘆き苦しんだ」と酷評している。しかしこれは、花井義雄や忠輝が改易となったことを知っている立場からの評言である。忠輝領の内政は付家老の大久保長安が依然大きな力をもち関与していた。忠輝に近く、長安にも近い吉成が重用されたことは想像にかたくなく、重臣らによる吉成への嫉(ねた)みなどから発した内訌(ないこう)といえよう。
花井父子は煤花(すすはな)川(裾花(すそばな)川)の流路変更と裾花川水系の鐘鋳堰(かないせぎ)・八幡堰(はちまんせぎ)の改修、犀川(さいがわ)の改修と犀川水系ののちに上堰・中堰・下堰とよばれる三堰の開削や新田開発など、多くの用治水事業をおこなったと伝えられてきた。これらは伝承以外の確かな史料はない。前にも記したが、忠輝の重臣が入る前から忠輝領の新田開発や治水事業を主導し領政の基礎固めをしてきたのは大久保長安であった。治水土木に長じた長安配下の甲州衆の活躍によるとみられるが、そのあとを長安の意をうけた花井が受けついで推進した開発かとも考えられる。これらの用治水事業がもし新規になされたとすれば、裾花川扇状地や川中島地域の農村景観を一変させるほどの大開発をもたらすであろうが、しかし、慶長七年の森検地の石高がその後大幅に増大した形跡はない。また、森検地の村切りが堰を境になされていたり、慶長六年成立の善光寺領が鐘鋳堰を領境としたりしていることは、松平忠輝領以前にすでに河川流路の改修や堰の開削がおこなわれていたことを想定させる。武田氏や上杉氏の統治下に相当に進展していたのではなかろうか。それが花井の事蹟とされてきたのは、長く松城城代として北信濃の領政にあたり、それ以前からの用治水事業を体系的に整備し総仕上げするという立場にいたからではなかろうか。
吉成は慶長十八年八月二十一日松城で死去し、西念寺(松代町)に葬られた。そのあとを長男の花井義雄が継いだ。義雄は父の遺領二万石を領知し、さらに十九年八月二十四日には桑原村(更埴市)、内川村・若宮村(戸倉町)、沼目村(須坂市)、四ッ屋村・今井村(川中島町)、二ッ柳村・東福寺村(篠ノ井)、中越村(吉田)の九ヵ村に新たに知行をあたえられた(中嶋次太郎『松平忠輝とその家臣団』)。忠輝とは歳も近く、片腕として、あるいはよき理解者として信望が厚かったのであろう。
高田城が完成してまもない慶長十九年七月、家康は豊臣秀頼が造営した京都方広寺(ほうこうじ)大仏殿の鐘銘(しょうめい)を非難し、十月一日大坂征討の動員令を全国の諸大名に発して、大坂冬の陣となる。忠輝は、冬の陣では江戸留守居役をしていたが、翌年五月に始まった夏の陣には出陣し、大和口総督に任じられ奈良に陣をしいた。花井義雄が大坂方の首一〇〇個を討ちとったと伝えられる。秀頼と母淀君が自害して、大坂の陣は徳川幕府の勝利に終わった。
夏の陣ののち、元和(げんな)元年(一六一五)九月、家康は忠輝の遅参・怠戦と近江(おうみ)守山宿(滋賀県守山市)で忠輝が将軍秀忠の直臣(じきしん)の無礼を責めて殺害したことなどをとがめ、忠輝を勘当した。忠輝は武蔵深谷(埼玉県深谷市)、ついで上野藤岡(群馬県藤岡市)で蟄居(ちっきょ)・謹慎(きんしん)した。それからすぐに病床に臥(ふ)した家康を見舞うため駿府まで行ったが面会を許されず、翌元和二年二月、七四歳で病死した家康の葬儀に参列することも許されなかった。家康没後数ヵ月のち、重臣花井義雄は改易に処され、常陸(ひたち)笠間(茨城県笠間市)へ配流(はいる)となりのちに高崎に移されている。元和二年七月六日、将軍秀忠は家康の遺言として、忠輝の所領没収と伊勢朝熊(あさま)(三重県伊勢市)金剛証寺への配流を命じた。秀忠はこのとき、横川の関所(碓氷(うすい)関所、群馬県碓氷郡松井田町)や江戸近国の入り口の守りを固めるよう諸大名にひそかに命じている。越後軍による江戸での騒動や舅(しゅうと)の伊達政宗との内通を警戒して厳戒体制をとったという(『信史』22三四〇~三四一頁)。
忠輝は元和四年三月に伊勢から飛騨高山城主(岐阜県高山市)金森重頼へ預け替えされ、さらに寛永三年(一六二六)四月高島城主(諏訪市)諏訪頼水に預けられた。忠輝は家来の男女四五人を引きつれて、新しく普請された高島城南の丸に入った。幕府から配所料として終身三〇〇人扶持(ぶち)の米と金五〇〇両をあたえられ、その米は北信濃の幕府領から送られた。また高島藩から薪一〇〇〇駄を給された。天和(てんな)三年(一六八三)七月三日九三歳で没し、貞松(ていしょう)院(諏訪市)に葬られた。貞松院には遺品の家康拝領の笛や自画賛が残されている。諏訪配流後、再三幕府に赦免を願ったが聞きいれられなかった。しかし、時勢とともに監視もゆるみ、高島城で静かな余生を送ったことをこれらの遺品が伝えてくれる。
忠輝の改易の理由は、さきにあげた大坂の陣での遅参・怠戦と旗本殺害のためとされ、大坂の陣のあとの参内(さんだい)に供奉(ぐぶ)しなかったこともあげられている。しかし、厳罰に処したことは家康や秀忠らに相当の危機感があったことをうかがわせる。忠輝には、妻や舅の伊達政宗、付家老の大久保長安とともにキリシタンであるという風評があった。伊達政宗らとともに海外に通じ、多くの異人らと親交を結び、政宗らとともに海外に使者を送ったことも危険視された。反秀忠派大名らに忠輝を将軍にかつごうとする陰謀があったとする憶測も流布(るふ)されていたという。家康が死去することは幕府にとって危険な非常事態であり、不安定要因の核になりかねない忠輝をいちはやく除去したのではないかと思われる。