松平忠輝の改易にあたって元和(げんな)二年(一六一六)七月五日、信越両国に幕府の検使が派遣された。北信濃には幕府旗本で御使番の阿部正之(まさゆき)が軍勢をひきいて入り仕置きをした。居城や支城の受けとりと在番は信濃・上野(こうずけ)・越後の大名に命じられ、越後の高田城(新潟県上越市)は上野高崎城主(群馬県高崎市)酒井家次・上野大胡(おおご)城主(同県勢多郡大胡町)牧野忠成・飯山城主堀直寄・上田城主真田信之・小諸城主仙石忠政らが、三条城(新潟県三条市)は高遠城主保科正光、村松城(同県中蒲原郡村松町)は高島城主諏訪頼水、糸魚川城(同県糸魚川市)は越後新発田(しばた)城主(同県新発田市)溝口宣勝(のぶかつ)、北信濃の松代城は松本城主小笠原忠政がこれにあたった。忠輝家老の松平信直・山田勝重・鱸成世(すずきなるせ)の三人は、「城は明け渡すが、屋敷は忠輝の命令がないので渡すことはできない」(『信史』22三三九~三四〇頁)といって高田にとどまったため、幕府の上使が忠輝の確認を得るために伊勢に早馬を飛ばした。忠輝のことばを聞いた三人はようやく納得して屋敷を引きわたしたという。「弓・鉄砲ならびに玉薬(弾薬)、長柄(ながえ)(槍(やり))のほか武具は城に残し置くべきこと」(『信史』22三五〇~三五四頁)という領地没収にあたって幕府がくだした条目にしたがって、松代城では城付きの鉄砲二〇〇挺、胴乱(どうらん)一五〇、火縄九三〇輪、塗り弓一〇〇張などの武具と城内のすべての畳・障子などの調度(ちょうど)が松代城受け取りの小笠原忠政に引きわたされた。これら城付きの道具類は松代を居城とした新たな領主へと引きつがれていった。
幕府は、元和二年七月二十五日常陸下妻(ひたちしもつま)城主(茨城県下妻市)松平忠昌(ただまさ)を松代一二万石に移した。越後の旧忠輝領には広大な幕府領が設置され、高田城には高崎の酒井家次を一〇万石で移した。そのほかは大坂夏の陣の功を賞して譜代大名や旗本の多くにあたえられた。松代藩といえば、真田氏入封(にゅうほう)後のことをさして使われることが多いが、北信濃の政治的・経済的拠点である松代を居城とした近世大名は、田丸直昌(ただまさ)、森忠政、松平忠輝、松平忠昌(ただまさ)があり、このあと酒井忠勝、真田信之(のぶゆき)へと転変する。松平忠輝は城代を松代において北信濃を統治していたが、松平忠昌の入封によって松代はふたたび領主による直接統治の拠点となった。したがって松平忠昌をもって近世松代藩が成立したといえよう(「松代」と文書に記されるのは正徳(しょうとく)元年(一七一一)からであるが、この第三節から松代と記す)。
松平忠昌は、慶長二年(一五九七)松平(結城(ゆうき))秀康(ひでやす)の次男として生まれた。家康の孫にあたる。慶長六年父秀康の越前北庄(きたのしょう)(福井市)入封で、幼少のころは越前にいた。慶長十二年上総姉崎(かずさあねがさき)(千葉県市原市)に一万石をあたえられ、越前松平家から独立する。元和元年正月に元服し従四位下・侍従に叙任され、将軍秀忠の諱(いみな)の一字を賜わり忠昌と称した。忠昌は大坂夏の陣で福井藩の先鋒(せんぽう)に加わり、敵の首五七個を討ちとるなどめざましい軍功をあげ、家康、秀忠の覚えめでたく、恩賞として常陸下妻城三万石に移された。翌年、松代一二万石となり、江戸浅草に屋敷を拝領した。しかし、わずか二年たらずの元和四年三月、越後高田城へ二五万石の得替(とくが)えとなる。さらに兄の福井藩主松平忠直が元和九年三月に不行状のため改易配流を命じられたため、寛永元年(一六二四)三月十五日に福井藩五〇万石の城主に転じる。そして越前松平家を再興した。
松平忠昌が入封した元和二年の北信濃は、大名や旗本の諸領や寺社領によって細分されていた。水内・高井両郡内にはすでに堀直寄・堀直重・近藤政成の大名・旗本領や善光寺領があったが、忠輝が蟄居(ちっきょ)した元和元年以降はさらに新たな領主が入り、所領の移動にいとまがなかった。飯山城主の堀直寄は、大坂の陣での戦功を賞されて元和元年に三万石を加増されて越後長岡城(新潟県長岡市)に移り、さらに四年四月二万石加増で越後村上城(同県村上市)に移された。飯山城へは近江(おうみ)から佐久間安政が移され、水内・高井両郡内に三万石を宛行(あてが)われた。
長沼城周辺は、慶長十七年に堀直寄が長沼の西厳寺(さいごんじ)に寺領を寄進しているから、忠輝が改易となる前に堀直寄領であった。元和二年七月、松平忠昌の北信濃入封で忠昌領となった。九月忠昌の家臣飯川八郎左衛門らが長沼村の寺社領の引き高を定めていることから明らかである。長沼城は、元和二年に飯山城主佐久間安政の弟で兄とともに近江にいた佐久間勝之(かつゆき)にあたえられた。元和二年十二月領知目録を渡される。領知状も出されたはずだが残されていない。この領知目録には水内郡内一七ヵ村、一万二五一八石八升二合、近江(滋賀県)高島郡内一〇ヵ村、四三八八石九升二合、常陸(ひたち)(茨城県)筑波(つくば)郡内二ヵ村、一〇九三石八斗二升五合の一万八〇〇〇石が記されている。水内郡内の一七ヵ村は、長沼村・津野村・赤沼村(長沼)、村山村(柳原)、駒沢村(古里)、田子(たこ)村(若槻)、三才(さんさい)村・金箱村(古里)、吉(よし)村(若槻)、相之島村(須坂市)、神代(かじろ)村・石村・南郷(みなみごう)村(豊野町)、室飯村・平出村・小玉村(牟礼村)である(一村は不明)。
高井郡には岩城貞隆(いわきさだたか)や旗本の小笠原忠知(ただとも)・井上庸名(もちな)・村上源助・河野氏勝が入るとともに、幕府領がはじめて成立した。すでに高井郡に入封していた旗本の堀直重は元和元年に高井郡内に四〇五三石を加増され、一万二〇五三石の大名に昇格した。下総矢作(しもうさやはぎ)(千葉市)から須坂に本拠を移し、須坂に居館を構え須坂藩が成立した。直重は元和二年六月十三日に急死したため、八月長男の直升(なおます)が父の遺領をついだ。直升は矢作領二〇〇〇石を弟三人に分知し、高井郡内一三ヵ村の一万五三石を領することになった。また近藤政成は元和三年五月二十六日秀忠から高井郡七ヵ村五〇〇〇石と美濃国内一〇ヵ村五〇〇〇石の一万石の領知状をあたえられた。政成は元和四年六月に死去する。遺領のうち高井郡五〇〇〇石を子の百千代(ももちよ)(重直)がつぎ旗本となった。
そして、新たに松本城主小笠原秀政の三男で旗本の小笠原忠知が、慶長十九年十二月に高井郡内に五〇〇〇石を宛行われた。また、岩城貞隆が元和二年高井郡岳北(がくほく)(高社山(こうしゃさん)以北)に知行一万石を宛行われた。貞隆は佐竹義重の三男で、陸奥(むつ)の岩城家をつぎ陸奥平(たいら)城主(福島県いわき市)であった。東西決戦のとき、上杉景勝(かげかつ)にくみして領地没収の憂(う)き目にあう。大坂の陣で家康の重臣本多正信に属して参戦し、戦後の論功行賞でふたたび大名にとりたてられ、元和二年八月十四日高井郡に領地一万石をあたえられ、高井郡中村(木島平村)に陣屋を置いた。そのほか井上庸名は、大坂の陣後に高井郡内に知行三〇〇〇石余をあたえられた。元和五年正月に井上の舅(しゅうと)にあたる黒田長政が発した文書に、井上庸名の知行地として「信州河中島之内、よませ(夜間瀬)村(山ノ内町)、はいつか(灰塚、のち若宮)村・あか岩(赤岩)村・篠井(しのい)村・へき田(だ)(壁田)村・岩舟村・新井村(中野市)」(『信史』23七〇頁)と記される。また元和四年には改易された越後の村上義明の家臣河野氏勝(一五〇〇石)、同じく村上源助(知行高不詳)がつぎつぎと高井郡に入封した。これ以外の高井郡は幕府領となり、高井野陣屋(高山村)などで代官の井上新左衛門・稲垣忠左衛門・酒井忠利・松平清左衛門らが管理した。したがって、元和二年七月松代一二万石で入封した松平忠昌は、松代を居城として水内・高井両郡内の諸私領と幕府領を除いた川中島四郡の過半を領することになる。
忠昌の家臣団は、幼少のころ父秀康から付けられた守(もり)役と、分家して姉崎に入封したとき本家から分けあたえられた家臣と、下妻に移るさい召しだされたものとで構成されていた。松代へ九万石の加増で入封するからには石高にみあった家臣団を必要とした。享保(きょうほう)六年(一七二一)に福井藩主松平吉邦(よしくに)の命で藩士の家系を調べ編さんさせた「諸士先祖之記録(しょしせんぞのきろく)」(『福井市史』)によると、松代入封以来の家臣として一九家があげられている。その半数が松平忠輝に仕え、忠輝改易ののち牢人(ろうにん)となったものを祖先とする。このように忠昌は改易された前領主の家臣を召しだし家臣団を拡大していった。前にみたように、忠輝の家臣団の中心は幕府の旗本や御家人を付け家臣としたものであった。したがって忠昌は幕府から付けなおされた幕臣を家臣としたことになる。また、父秀康の主だった家臣は家康から付けられたもので、忠昌の幼少以来の家臣はおおむねその子弟である。家康六男の忠輝の場合と異なって幕府直轄領的な色合いは薄らいだが、北信濃は引きつづき幕府の施政を反映する家臣を支配のにない手とした徳川一門大名により領有された。
忠昌は北国(ほっこく)街道の整備を受けついだ。元和二年九月二十八日、福島(ふくじま)村(須坂市)・丹波島村(更北丹波島)・稲積村(若槻)に、幕府御用の伝馬人足を遅滞なく出すよう忠昌の家老狛孝澄(こまたかすみ)・野村重勝らの連署書状で命じている。十一月五日には小市(こいち)村(安茂里)に五〇石分の諸役を免除した。小市の渡しは犀川の出水(でみず)で北国街道の市村(芹田)の渡しが舟留めになるとき使われる重要な渡し場であった。慶長十五年四月に小市村の舟頭八人が、ときの領主松平忠輝に「これまで田五〇石は役儀を免除されていたが、新しい知行主小山監物(けんもつ)殿から役儀を申しつけられ、さらに市村の渡しの手伝いに出されたうえ、昼夜となく働かされて迷惑している。田地にかかる役儀を免除してほしい」(『信史』⑳五二九~五三〇頁)と訴願した。忠輝はこれを許し舟役に精を出すよう命じている。忠昌も同様に舟頭らに役儀免除の特権をあたえ、北国街道の円滑な運用のために措置を講じたのである。
忠昌は元和四年三月に越後高田への移封を命じられる。松代城をつぎの城主酒井氏へ引きわたしたのは五月で、その間、移封の準備をすすめながら四月二日には粟佐(あわさ)村(更埴市)の百姓らに千曲川に面した松賦(まつぶせ)河原(篠ノ井塩崎)の開発をおこなわせている。忠昌の藩政については、史料が少ないこともあってめぼしいものは見あたらない。二年足らずの在任期間では、じっくりと藩政に取りくむことはできなかったろう。