酒井忠勝の松代入封

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松平忠昌にかわって松代藩主となったのは、越後高田城主酒井忠勝である。元和四年(一六一八)三月、松平忠昌を高田二五万石に得替えするため、酒井忠勝を高田から一〇万石のまま松代へ移封させた。酒井忠勝は四月十八日、幕府代官井上新左衛門から領知目録を渡された。「信州川中島御知行之目録」(『信史』22五八五~五九五頁)によると、更級郡内六三ヵ村、三万五九〇五石四升、埴科郡内二四ヵ村、一万四九二八石五斗二升六合、高井郡内一七ヵ村、九八二四石三斗五升九合、水内郡内八八ヵ村、三万九二九二石四斗八升五合で、あわせて一九二ヵ村、九万九九五〇石四斗一升であるが、領知高は一〇万石であった。忠勝入封にさいして更級・埴科両郡の松代領をさいて幕府領が増した。しかし、忠勝も北信濃の半ばを領する信州最大の大名であることにかわりはなかった。忠勝はその後元和八年に三万石の加増をもって出羽鶴岡(山形県鶴岡市)に移された。


写真12 信州川中島御知行之目録
(真田宝物館蔵)

 酒井忠勝は、徳川家康につかえた三河(愛知県)以来の譜代大名で、徳川四天王のひとりといわれた酒井忠次の孫にあたる。文禄(ぶんろく)三年(一五九四)下総臼井(うすい)(千葉県佐倉市)に生まれ、慶長十四年(一六〇九)正月従五位下・宮内大輔(くないたいふ)に叙任され、大坂の陣に参戦した。忠勝の父家次は、松平忠輝改易のさい高田城本丸を受けとり、そのまま越後高田藩に入り一〇万石を領した。元和四年三月家次が病死し、忠勝があとをついだ矢先、松代移封が命じられ、五月二日松代城は忠勝に引きわたされた。忠勝の家臣団は、酒井家の事蹟を編さんした『大泉紀年(たいせんきねん)』によると、元和八年出羽鶴岡に入封時の重臣として家老の高力但馬(こうりきたじま)一成・石原主馬(しゅめ)重秋、御伝役の杉山七兵衛、農政統括にあたる郡代の柴谷宗次・加藤重利(茂利)らがいた。酒井氏が三河にいたころからの家臣が重職を占めている。

 忠勝の藩政は、前領主松平忠輝・松平忠昌の藩政を引きついだ。元和四年五月、丹波島宿へ忠勝家老の高力数馬(但馬ヵ)一成・伊藤豊後(ぶんご)・石原重秋の黒印を示し、「この印判のない手形や印判をまねた偽手形で人馬継ぎ立てをおこなってはならない」(『信史』22六〇二頁)と申しわたした。また、六月には郡奉行本多忠左衛門と勝木多左衛門ら郡奉行と代官らが稲積村(若槻)を伝馬町と定め、宿駅の人馬を負担させ、その見返りに諸役を免じている。ほかの北国街道の宿場にもあてられたと思われ、六年十一月には郡代柴谷宗次・賀藤(加藤)茂利が「さきに郡奉行衆が定めたとおり」として、徳間東条村・稲積村(若槻)、丹波島村(更北丹波島)、福島村(須坂市)、雨宮(あめのみや)村・屋代村(更埴市)にあてて伝馬町と諸役免除を確認している(雨宮村は屋代宿の加宿)。

 また水内郡大安寺(七二会)、埴科郡蓮光(れんこう)(練光)寺(松代町)、水内郡法蔵寺(小川村)に寺領の寄進や安堵をおこない、元和五年九月二十一日埴科郡本誓寺(ほんせいじ)(松代町)に禁制(きんぜい)を掲げた。禁制は木製の竪(たて)板に禁止的命令を記し、寺社などに掲げられた。寺の求めに応じて出され、寺社の保護のためにあたえられた。近世に入ってからは禁制の内容や様式も形式化する。酒井忠勝の禁制は「寺に出入りするものが狼藉(ろうぜき)をはたらくこと、寺で竹木を伐採したり殺生すること、寺に役儀をかけることを禁じ、違反者は処罰する」(『信史』23一四三頁)と記される。さきの領主松平忠昌も同様に禁制を発しており、のち真田信之も寛永元年(一六二四)十二月に本誓寺に同じ禁制をあたえ、さらに寺領を安堵している。


写真13 伝酒井忠勝像
(山形県酒田市 致道博物館蔵)

 忠勝が松代に入った元和年間は、戦国時代から打ちつづいた戦乱が終わり武器をふせて用いない時代、すなわち「元和偃武(げんなえんぶ)」という太平の世が到来した時代であった。諸大名は領内の政治に力をそそぎ、逃散(ちょうさん)した百姓の呼びもどしや領内の作付状況の把握をおこない、戦乱で荒廃した農業生産の回復につとめるいっぽうで、新田開発をすすめた。戦時の強引な年貢収奪をやめ、年貢の自然増収をもたらす安定した農村をつくる農政にかわっていった。忠勝も諸大名と同様に生産基盤の整備につとめたと思われ、新田開発を奨励している。千曲川沿いの更級郡松賦(まつぶせ)新田は、松平忠昌が元和四年四月に粟佐(あわさ)村(更埴市)の百姓らに命じて開発をさせたが、忠勝も引きつづき開発をすすめた。九月九日に、三年間は年貢を免じ、四年めに検地して新田の年貢高をきめ、年貢の半分を納めることを定めた。また、草刈入会地を荒らさぬように申しわたしている(『信史』23二一六~二四〇頁)。

 江戸時代初期には、粟佐村の松賦新田の開発のように藩主が百姓に年貢や役儀免除などの特典をあたえて開発をさせる新田開発のほかに、戦争が終わって武士の身分を捨て土着して百姓となった旧小領主層がその権威と資力をもとに開発の主導者となり、藩の許可を得て開発をすすめる例もあった。佐久郡の市川五郎兵衛による五郎兵衛新田(北佐久郡浅科村)はこの好例で、北信濃では福島村(須坂市)の横田理右衛門の千曲川西岸の開発がこれにあたる。理右衛門は領主の酒井忠勝に願いでて、元和七年十一月十日に翌年春からの開発を許可され、新田を開発したあかつきには三年間は年貢と役儀は免除し、三〇〇石開墾すれば五〇石は理右衛門にあたえると申しわたされた。理右衛門はつぎの領主真田信之からこの約束を再確認され、寛永元年までに三二〇石五斗八升四合の新田を開発している。

 忠勝はまた、農業生産ばかりでなく百姓の川かせぎにも注目した。さきに松平忠輝が、大豆島(まめじま)村(大豆島)の肝入(きもいり)衆に千曲川の鮭(さけ)取り運上を命じていたが、元和四年八月四日、忠勝は大豆島村百姓らに今年から鮭一〇匹につき四匹ずつ上納するよう命じた。

 忠勝は全領的な再総検地をおこなわなかった。右の松賦新田で「四年めに検地して年貢を定める」としていたとおり、新田検地は当然おこなわれていた。北信濃では元和年間(一六一五~二四)に新たな領主による領内の検地がさかんにおこなわれている。高井郡内では須坂藩が元和六年から全領で、福島正則が元和七年から全領で、水内郡内では飯山藩や長沼藩も全領検地を実施している。『信濃史料』(23二一六~二四〇頁)には、酒井忠勝が元和六年九月二十七日水内郡田子村(若槻)の検地をおこなうとあるが、田子村は元和二年より長沼城主佐久間勝之の領地であるから、忠勝とするのは誤りで、検地をおこなったのは長沼藩である。これらの検地は森検地をやりなおし、開発された新田を把握した。

 忠勝は元和五年六月二日、安芸(あき)広島城主(広島市)福島正則の改易にさいして広島城本丸の受け取りを命じられた。秀吉子飼いの武将として武雄を誇った福島正則は、東西決戦で徳川家康につき、戦後広島城をあたえられ安芸・備後(びんご)(広島県)四九万余石を領していたが、元和五年幕府に無断で広島城を修築したことをとがめられ、所領を没収された。はじめ正則は陸奥津軽(青森県)へ移されることになったが、先祖代々の土地を離れたくない津軽氏が領地替え拒絶を幕閣へ強力に働きかけたため、かわって高井郡内二万石と越後魚沼(うおぬま)郡内二万五〇〇〇石の四万五〇〇〇石へ移されることになった。福島正則領をつくるために、元和五年六月ころ高井郡の近藤重直は伊那郡立石(たていし)(飯田市)へ、井上庸名(もちな)は同郡今田(いまだ)(同市)へ、村上源助も時期や所領は不明ながら同じころ知行地を伊那郡内へ移され、これらの旧旗本領と幕府領をあわせた五五ヵ村が福島正則に宛行(あてが)われた。福島正則は十月、高井野村(高山村)の幕府代官陣屋あとを居館として蟄居(ちっきょ)する。元和六年嗣子(しし)忠勝の死去により越後二万五〇〇〇石を幕府に返上し、四年後の寛永元年七月十三日に高井野で死去した。遺領のうち高井郡内三一七二石三斗一升は子の正利にあたえられ、旗本とされた。

 元和八年八月二十七日、酒井忠勝は出羽鶴岡城(山形県鶴岡市)への移封を命じられる。三万八〇〇〇石を加増され、一三万八〇〇〇石で田川・飽海(あくみ)両郡(山形県)に所領をあたえられた。そののち寛永九年には二〇〇〇石を加増され、幕末の元治(げんじ)元年(一八六四)にはさらに加増され一七万石となった。酒井氏は終始庄内(しょうない)藩(鶴岡藩)にとどまり明治維新にいたる。奥羽地方にあって徳川古参の譜代大名として「奥羽の鎮め」といわれた。

 酒井忠勝は鶴岡の城下町の拡張整備を早々におこなったが、家臣の家族がすべて松代から鶴岡に移るまでには四~五年かかったらしい。寛永五年五月、庄内藩士中村加兵衛の母が松代領内の牧之島(信州新町)から庄内へ引っ越すにあたって、松代藩の出浦安広らから飯山・越後高田・越後村上領の関所にあてて通行手形を出している(『大泉紀年』)。


写真14 鶴岡城跡 (山形県鶴岡市)