真田信之の松代入封

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幕府は元和八年(一六二二)八月、松代城主酒井忠勝を出羽鶴岡に移し、上田城主真田信之を松代へ移した。信之は四万石を加増され領知高一三万石で、埴科・更級・水内・高井郡内を宛行(あてが)われ、上野(こうずけ)国利根・吾妻(あがつま)両郡内三万石は引きつづき領知を安堵(あんど)された。当時、上田城の修築を指揮していた信之は幕府から江戸に呼びだされ、松代移封を告げられた。


写真15 松代城跡 (松代町松代)

 十月二日酒井忠勝から松代城を明けわたされ、同月十九日に真田家家老の矢沢頼幸らに「松城本丸残し置く諸道具目録」と「松城本丸畳・戸障子目録」が引きわたされた。信之は家臣にあてた書状に「誠に家の面目残すところなく幸せにて」と記し、さらに「自分はもはや老いて万事いらざる儀と思うが、上意でもあり子孫のためと思い、御諚(ごじょう)にしたがい松代に移ろうと思うので心配ないように」(『信史』23五〇三頁)と結ぶ。家名を残すために渋々幕命にしたがうとしながらも父祖伝来の土地を離れたくない気持ちものぞかせている。また、親しかった京都の小野お通にあてた手紙にも、「もはやうきよにいらぬと存じ候へども、子どものためと思い、露の命の消えぬまで世を渡り、あさけのけふり心細さ、おしはかりてくだされ」(『信史』23五六〇~五六二頁)と書いている。心血をそそいで築き、守ってきた上田城と小県(ちいさがた)の所領を手離し、心ならずも松代に移る気持ちは並々ならぬものがあったのであろう。

 幕府が真田信之を松代に移した理由はさまざまに考えられる。「松代は名城といわれ北国のかなめの要害である」(『信史』23五〇三頁)という将軍徳川秀忠が信之へじきじきに語ったことばにあるように、松代は信越両国を結ぶ軍事的に重要な拠点であった。代官頭の大久保長安が松代を信濃経営の一拠点とし、家康六男の松平忠輝を松代藩主としたことからも、幕府がいかに松代を重視していたかがうかがえよう。また江戸時代初期の松代城下にはすでに町割りも整っており、北信濃の経済の中心地でもあった。松代を任せることのできる器は真田をおいてほかになかったと考えられる。そのうえ、松代は武田氏ゆかりの土地であった。武田信玄が海津(かいづ)城(松代城)を築いた永禄(えいろく)年間(一五五八~七〇)から松代に移りすみ、そこに土着した武田の旧臣や、かれらに付きしたがってきた商工業者が松代に根づいていた。この土地を統治するには、武田にゆかりある真田氏が適任者であったとも考えられよう。

 しかし、真田氏は過去に徳川氏にとって決定的な戦いの場で敵として相対していた。天正(てんしょう)十三年(一五八五)に真田は徳川・北条の大軍と上田城で戦火をまじえてこれを撃退し、慶長五年(一六〇〇)の東西決戦にあっては信之の父昌幸(まさゆき)と弟信繁(のぶしげ)(幸村)が上田城に籠城(ろうじょう)し、徳川秀忠軍を決戦の場に遅延させるという苦渋をあたえた。さらに、慶長十九年と二十年の大坂の陣では信繁率いる真田軍が豊臣方にくみし徳川家康と戦った。「真田日本一の兵(ひのもといちのつわもの)、いにしへよりの物語にもこれ無き由」(『後編薩藩旧記雑録』『信史』23五〇三頁)と賞賛される知略にたけた武勇の誉れ高い一族と認められた真田氏にたいして、徳川方に警戒心があり、とくに将軍秀忠が積年の恨みを抱いていたであろうことは想像にかたくない。東西決戦のあと、上田の所領をいったんは信之に安堵したものの、真田氏を父祖伝来の上田領から引きはなしたとも考えられる。

 また、幕府は中世からつづいた領民の地縁・血縁による支配を断ち、近世的な領主・領民の関係を形づくる大名の配置転換をおこなってきた。大名はまさに鉢植えにされた。その原則からすると、真田はいまだに領地替えのない信濃で唯一の大名であった。だからこそ、この機会に真田を上田から松代に移封させたとも考えられる。

 信之の松代移封の理由は以上のようにいろいろ考えることができよう。ともかく、この移封によって真田氏は近世大名の一歩を踏みだし、上田領では近世的な領主・領民の関係がもたらされたことになる。

 信之には、幕府から領知状と領知目録はあたえられなかった。寛永十一年(一六三四)に幕府へ差しだした領知書き上げによると、信濃四郡のうちで八万三〇〇〇石、上野利根郡内の沼田二万二〇〇〇石、吾妻(あがつま)郡内の八〇〇〇石を信之が領するとあり、さらに家康・秀忠から朱印状をもらっていないことが付記されている(『新史叢』⑯六七~六八頁)。信之は幕府の公許を得て所領をこどもたちに分知していた。年次は不詳だが、信之は松代入封(にゅうほう)前に沼田城を中心とする上野国内の三万石を長男信吉(のぶよし)に分知しており、寛永十一年に信吉といっしょに朱印状を渡されるはずであったが、信吉がその年に病死したため、あたえられずじまいであったものと思われる。