信之は松代入封ののち、次男信政へ北信濃の領知から一万石を、三男信重(のぶしげ)に七〇〇〇石を分知していた。前領主酒井忠勝から渡された「信州川中島御知行之目録」には、更級郡六四ヵ村、埴科郡二三ヵ村と松代城下、水内郡八五ヵ村、高井郡一七ヵ村の高一〇万石が記され、このうち一九ヵ村は「内記(ないき)様」(信政)、一一ヵ村は「隼人(はやと)様」(信重)と付け札が添えられていて、分知のようすを記している。正保(しょうほう)四年(一六四七)三月の「信濃国郷村帳」(『県史』⑨一)には、真田伊豆守八万三〇〇〇石、真田隼人正(信重)領分一万七〇〇〇石とある。信之は信吉の死後、沼田領三万石をその嫡男熊之助に継がせた。しかしその熊之助も寛永十五年に夭折(ようせつ)してしまい、沼田三万石のうち二万五〇〇〇石を信政に、残りの五〇〇〇石を信吉の次男兵吉(信利(のぶとし))に分知した。北信濃の信政分知領一万石は信重へ分知したため、正保郷村帳の記載はこのときのことをあらわしている。分知領は分知領主が死ねば幕府に収公されるため、分知領の維持に信之はたいへん苦労した。江戸初期には幕府の方針もまだ定まっていなかったこともあり、真田氏のような分知領の推移もできたのだが、これが中・後期ならば当然収公されたはずである。信吉、熊之助についで正保五年三男信重も父信之に先立って病死した。信重には嫡子がいなかったので、信重の分知領は信之の領分になった。こうして信之の所領はふたたび一〇万石にもどった。
真田家臣団は信之とともに松代に入ってきた。家臣団は矢沢・常田(ときた)氏ら真田一族衆と譜代衆、武田氏滅亡後に帰服した小県の旧小領主層の浦野・海野(うんの)・鎌原(かんばら)ら上田衆と、北上野の土豪層である湯本・折田・唐沢らの吾妻(あがつま)衆、金子・恩田・渡辺など沼田衆からなる。信之は東西決戦ののち父昌幸の家臣団すべてを引きついでおり、信之の家臣団はこれを基本として新たに沼田城主時代に召しかかえた沼田衆も加わった。松代藩では一族・譜代衆や上田・吾妻・沼田衆が上級家臣を占め、松代移封ののち在地から取りたてられたものは、中下級の武士や中間(ちゅうげん)・小者といった奉公人が多かった。松代領では、森忠政によって有力な土豪が一掃されたこと、歴代の領主が在地の土豪層や牢人を召しかかえ転封していったこと、とくに上杉景勝の会津移封では地元の土豪層がこぞって松代領を去ったことなどによって、有力な土豪層がいなかったからではなかろうか。また信之は、上田時代にとっていた地方知行(じかたちぎょう)制を松代に移ってからも継承している。しかし、上田から四万石の加増となったが給人知行地は増加せず領主直轄領(蔵入地)が増加した。蔵入地は寛文(かんぶん)三年(一六六三)には六万四五七二石余で、上田時代の総石高に占める割合が約二〇パーセントであったのが約六〇パーセントにまでのぼっている(二章一節二項「家臣団の構成と地方知行」参照)。
こどもたちにあいついで先立たれた信之は、松代藩主に在位すること三十数年、すでに九〇歳という老齢になっていた。再三にわたり幕府に隠居を願いでていたが、なかなか許されなかった。その理由は将軍家綱が幼少であることとされているが、藩主が急逝し絶家となれば、領地没収・取りつぶしになる。徳川と真田の戦国以来の微妙な関係から推察すると、藩主の交代に関して政策的なもくろみもあったのではないかと思われるが、確たる証拠はない。信之は明暦(めいれき)三年(一六五七)老中酒井忠清に談じて、真田領一三万石を松代と沼田に分け、松代一〇万石を信政に、沼田三万石を信利にあたえることを幕府に上申し許された。七月、信政は沼田から松代に家臣の沼田侍を引きつれ入封した。信政はこのときすでに六〇歳であった。沼田藩三万石では信利が城主となり、分知領から独立藩となった。信之はようやく隠居を許され、柴(しば)村(松代町)に隠居所をつくり、侍五十余人と足軽・仲間など三百余人を召しつれて隠棲(いんせい)し、剃髪(ていはつ)して一当斎(いっとうさい)と号した。
しかし、わずか六ヵ月足らずの明暦(めいれき)四年(万治(まんじ)元年、一六五八)二月、二代藩主の信政が急死してしまう。ここで家督をめぐる相続争いがもちあがった。信政は沼田から松代に移って日が浅かったことを危惧(きぐ)し、沼田から召しつれた家臣らにあてて「川中島の侍どもなじみなく候へども、倅(せがれ)みとどけ存じより次第奉公たのみいり候」(『新史叢』⑰三一八頁)と、どんなことがあっても五男幸道(ゆきみち)の後見を頼むと遺言状を残した。老中あての幸道跡目相続願いは信之の添え状がつけられ、老中酒井忠清に遣わされた。
ところが、老中の酒井忠清からは「川中島は北国の押さえなので幼少の幸道よりも壮年の信利を三代藩主にしてはどうか」(『新史叢』⑰三三一頁)と伝えてきた。信之は一度決めた幸道継嗣を撤回することが筋目に違(たが)えることと、将軍家綱が幼少であるこの時期の老中酒井忠清のことばは幕府のそれに等しく、幕府の意向に逆らうことになりかねないこととのあいだで躊躇(ちゅうちょ)し、大いに揺れた。真田信利の父信吉の正室は酒井忠世(ただよ)の娘で、老中酒井忠清は弟にあたる。したがって信利とは親しい関係にあった。酒井には、祖父信之のうしろ盾(だて)をもつ幸道が藩主となるよりも幕府にとり好都合という意向があったのであろうか。信利の三代藩主継嗣については、外孫の高力高長(こうりきたかなが)(肥前島原城主、母が信之の娘)からも信之や藩の重臣らに強い勧めがあり、当事者の信利自身も藩主の座をねらい松代の老臣らにさかんに働きかけた。跡目相続は延引し、家中は信政の遺臣である沼田衆を中心に遺児幸道を推す派と信之の嫡孫にあたる信利を推す派に割れた。家中から沼田の信利に内通するものも出る。幸道派は信之と幸道を守り生死をともにするとして誓詞血判をするまでに発展した。その数、士分一二〇人、徒士(かち)二八人、足軽三〇〇人、中間・小者一〇〇人、あわせて五四八人にのぼり、松代藩内は騒然となった。松代藩の危機を前に酒井忠清は信利の藩主継嗣をあきらめ、信政の遺言どおりわずか二歳の幸道を松代藩の三代藩主とすることを容認した。こうして明暦三年幸道に家督が譲られた。
松代藩は松代入封以来領内に分知を抱え、上田衆、沼田衆など出身を異にする家臣の利害対立をはらんできたが、信之のカリスマ性によって収められていたと思われ、抗争らしい事件も伝えられていない。二代藩主信政の死去をきっかけに噴きだした藩内の勢力抗争は、三代幸道の藩主継嗣によって決着した。松代藩はこのときをもって領主の一元支配体制が確立したといえよう。信之はこの跡目騒動ののち万治元年十月九三歳で没する。また、沼田藩主真田信利は天和(てんな)元年(一六八一)に改易となり、真田沼田藩三万石は廃絶してしまう。領主の移動、交代が頻繁になされた江戸時代にあって、松代藩は真田信之の松代入封以降明治初年の廃藩置県まで一貫して同一の領主でありつづけた。信州では高島藩と並ぶ例外的な藩である。