武田信玄が築城した海津城に始まる松代城は、北に流れる千曲川に接して形成された自然堤防と周囲の湿地をたくみに利用して築かれた平城(ひらじろ)である。築城当初の城は、北側を流れる千曲川を背に配された本丸と二の丸、それらを囲む堀のみにより形成されていたものと推定される。このころの城内に高石垣はまだなく、厳選された土を叩(たた)き締めて高く盛りあげた土塁(どるい)が、本丸など曲輪(くるわ)の周囲をめぐっていたと考えられている。ただし、土塁を割って開く虎口(こぐち)などには、平石を小口積みにした小規模な石積みをもっていたようである。また、二の丸から土橋で堀を渡り城外に通じる南側と東側の虎口には、武田氏の築城法の特徴ともいわれる丸馬出(まるうまだし)がつくられていた。城内に建っていた建物などの詳細は不明であるが、史跡整備事業にともない、昭和六十年(一九八五)からおこなわれている発掘調査では、柱を直接地面に埋めこんだ掘立柱(ほったてばしら)建物の痕跡(こんせき)が本丸などで見つかっている。また、二の丸の南西隅では鉄製品の製作にかかわる工房が確認されている。これらは、海津城築城当初のものである可能性が高く、城内にあった建物の一端を示しているものと考えられる。
信之が酒井忠勝から引きついだ城は、信玄の築城からわずか六十余年後であったが、本丸には織豊(しょくほう)期の築城にならった高石垣が築かれるとともに、城地は二の丸の南側へ堀をはさんでひろがり三の丸が設けられるなど、築城当初の姿とはやや変化していた。これらの改修がいつおこなわれたのかは定かではないが、天正十三年(一五八五)から慶長三年(一五九八)にかけて在城した須田満親(みつちか)のときとも、そのあと、慶長五年はじめまで在城した田丸直昌のときともいわれる。おそらくは両者とその前後の城主にわたり、築城時の形を踏襲(とうしゅう)しながら徐々に修築されていったのが事実なのであろう。これは、松代城の石垣が野面積(のづらづ)みとよばれる天正から慶長期にみられる特徴的な積み方によっていることからもうなずける。また、本丸虎口周辺の石垣などに認められる短期間のうちに増修築を繰りかえした痕跡は、それぞれの城主が理想の石垣を模索し、つくりなおしていたと考えることができる。
石垣の石材は、皆神山(みなかみやま)を主産地とする輝石安山(きせきあんざん)岩を主体として、その他周囲の山に産する石材が使用されている。なお、石材は山などから運ばれていただけではなく、中世の墓石である五輪塔なども使われている。松代城では、五輪塔は石垣背後の裏込栗石(くりいし)に混じって多数出土した。この墓石は、海津築城以前にこの地にあったとされる蓮乗寺のものを転用したとする見方もあるが定かではない。城郭石垣に墓石などを転用することは、このころに築かれた城郭にはよくある光景である。これは、たんに石材の不足を補ったのではなく、魔よけなどまじない的な意味合いをもつと解釈するむきもある。
城内の建物が、掘立柱から礎石建ちの建物に建てかえられたのも、土塁から石垣に修築された時期と同じころであったと推定される。発掘調査では、本丸と二の丸御殿の礎石をはじめとして、門や櫓(やぐら)などの建物礎石が確認されている。なかでも御殿の礎石は、のちの享保(きょうほう)二年(一七一七)の火災で全焼したときのものであることが判明した。ただし、調査で確認したこの礎石配置と、信之在城のころの御殿を記している「一当様(真田信之)御時代御本丸御殿図」の間取りがほぼ一致することから、この礎石に柱を置いて建っていた御殿に信之も生活し藩政を執っていたともみることができる。
また、この絵図を見てもわかるように、本丸には御殿や隅櫓(すみやぐら)、門などのほかにも、味噌(みそ)蔵や綿蔵、御金蔵などの建物が石垣の上に所狭しと建てられていた。発掘調査でもこの絵図の記載を裏づける建物の痕跡が確認されている。城内での生活や藩にとって重要な物品をあえて外敵にさらされやすい周囲の高台に載せているのは、水害からこれらを守ることを優先した低地の平城ならではの工夫だったのであろう。
本丸の北西部には、戌亥櫓(いぬいやぐら)台とよばれるひときわ高い石垣がある。天守台として築かれたものであることは疑いないが、発掘調査や絵図などでその痕跡を見ることはできない。「一当様御時代御本丸御殿図」をはじめとした絵図にも、隅櫓が記されているのみであることから、おそらくここに天守が存在したことはなかったのであろう。ただし、この櫓台周囲から幕末に北不明(きたあかず)門とよばれていた本丸北側の枡形虎口(ますがたこぐち)にかけては、慶長期前後に製作されたと考えられる城内でも古手の屋根瓦(がわら)が集中して出土する地域でもある。なかには、これらに混じって信之の入城後につくられたと考えられる六連銭を配した鬼瓦も出土している。瓦の出土量の多寡のみで屋根の被覆材(ひふくざい)を判断することはできないが、この時期の瓦がごく少量かほとんど出土しない本丸や二の丸の御殿跡に比べるとこの地域での出土量はきわだっている。天守こそないにしろ、北側を流れる千曲川に面し城外を望むこの場所に、意図的に瓦葺(ぶ)きの重厚な隅櫓や門などを配すことにより、支配下の地に睨(にら)みをきかせていたことは想像にかたくない。