松代城下町は、南東に山地を背負い、松代城本丸のすぐ北側を流れる千曲川とのあいだにはさまれた土地にあり、松代城から南東にひろがる。町中の西に神田川、東に関屋川が貫いている。江戸時代の城下町は、武士の住む侍町と、「町八町(まちはっちょう)」とよばれる荒神町(こうじんまち)・肴(さかな)町・中町・鍛冶(かじ)町・伊勢町・紺屋(こんや)町・紙屋(かみや)町・馬喰(ばくろう)町の八つの町人町と、のちに城下周辺や侍町・町人町・寺町のあいだに生まれた「町外町(ちょうがいまち)」とよばれる町からなる。
永禄元年(一五五八)から三年のあいだと推定される(『市誌』②)武田信玄の海津城(松代城)築城以来、真田信之の松代入封までの六十余年の間、大名や城代が居城とし、その家臣団や大名直属の商工業者が松代に集住した。江戸時代に松代城下町で代々町年寄をつとめた杭全(くまた)家や八田(はった)家は武田の家臣として甲州(山梨県)から松代に移り住んだものと伝えられる。なかでも杭全家二代の祐八は甲州で武田家臣高坂(こうさか)弾正忠昌信に仕え、高坂昌信が海津城代となり松代に入るのにともなって松代に来て、のち民にくだって海津城の南に住んだとされる(『更級埴科地方誌』③下)。また、検断(けんだん)であった伴(ばん)家は近江(おうみ)(滋賀県)の出身であるという。いずれもはじめは武士であり、あるいは武士と未分化の商工業者であり、領主とともに松代へやってきた人びとであった。
松代に移り住む人がいれば、すでに住んでいた人もあろう。玉依比売命(たまよりひめのみこと)神社(松代町)の縁起によれば、戦国時代に尼巌(あまかざり)城の城下町が山麓(さんろく)にあり、往来の移動と海津城の築城によって西へ移り、やがて荒神町・中町・伊勢町となったとある。また神社近くにあった市神(いちがみ)も町とともに移っていったという(『松代町史』上)。現在も中町に「市太神」(市神)と記された石碑がある。真田領となってから市が開かれたのは、荒神町、中町、伊勢町で、またこの三町に肴町、鍛冶町を加えた五町は、北国(ほっこく)街道松代宿の伝馬役をも請け負った。武田信玄は尼巌城を滅ぼし、松代に海津城を築き、北国街道を城下に導いた。城下町の繁栄のため市神を海津城近くに遷座させ在地の商工業者を城下町に集中させ、そこに宿場を置いたと考えられる。五町の繁栄がしだいに西へと発展していき、紙屋町ほか三町が北国街道に沿ってでき、真田信之が入封するころにはすでに八つの町はそろっていたと思われる。
真田信之が入封した元和八年(一六二二)の年次をもつ松代城下町の絵図には、高さ一三尺(約四メートル)・幅五間(約九メートル)と添え書きされた「惣構(そうがま)え(土塁)」が記されている。惣構えのうちには、松代城と武家屋敷地と市が立ち、伝馬を請け負う商工業者の住む五町のみが郭内にあり、町人町のうち紺屋町・紙屋町・馬喰町はこの惣構えからはずれる。大名の城館と侍町と町場の一部を包摂した惣構えは、戦時にはその外側を水浸しにし敵の侵入をはばみ、城下全体を敵の攻撃にたいする防衛線とすることを意識した軍事的な都市形成が計画されてきたことを物語る。
しかし、海津城は北面を千曲川に接し、その周辺は扇状地の末端の湿地状態やひどい沼地であったから、堅牢(けんろう)な土塁なしでも容易には攻めこむことのできない自然の要害であった。したがって、惣構えは水害から城下町を守る防護壁(水防)であったとも考えられる。絵図に描かれた山から直進する神田川は町場にぶつかったところで急激に曲折して千曲川に流れこんでいる。時期はわからないがいずれかの領主のときに、この流路を東に曲げるために河道を掘削し、ここで排出された土砂を川の氾濫(はんらん)にたいする防御壁として盛りあげたものとみることもでき、町人町のうち神田川に接する三町のみが郭外にあるのも解釈がつこう。
城下町の建設は、築城以来代々の領主によっておこなわれてきた。森忠政は城の外郭を築くため南大手門にあった西念寺を肴町へ移し、松平忠輝は二の丸付近にあった祝(ほうり)神社を鍛冶町へ移し、慶長十三年(一六〇八)に社殿を再建し町の鎮守としたと寺伝・社伝に伝える。森忠政から松平忠輝が領主のときに大名の居館と武士の居住地と町人の居住地を明確にし、町割りを計画的に整えたと推測される。慶長年間(一五九六~一六一五)には松代城下に金や銀を吹きたてる「はかりや」という商工業者がすでに存在していて、慶長九年に採材・運搬の資金として松代から木曽谷へ銀が送られた(『信史』⑲五七六頁)。これは松代を地域経済の拠点とする基盤整備がすすんでいたことの証(あかし)であり、慶長年間には町として成熟していたといえる。真田信之はこのようにすでに整然と町割りされた城下町に入るにあたって、真田家の菩提寺長国寺(ちょうこくじ)(松代町松代)や大英寺(同)・大林寺(同)など多くの寺を上田城下から移して松代城下に組みこみ、町を再編成したといえよう。また信之にしたがってきた上田や沼田の商工業者らは町人町へ居住することで、松代の町人に融合されたのである。
寛永十年(一六三三)六月、信之は町奉行の成沢勘左衛門と前島佐左衛門に九ヵ条からなる松代町の置目(おきめ)(掟(おきて))を定めあたえた。第七条に「町屋敷明細に改めよ、たとい跡々より無役のところなりとも、朱印なくばその役儀申しつくべく候、その上奉公人居住候とも、諸役儀は町人同前に仕(つかまつ)ること」(『県史』⑦五)とあり、町人町に住む武家奉公人らはこの町に住むことで「町人同前」に町役(役儀)をかけられ、町人として扱われたことを示している。すでに森忠政の慶長七年の四郡検地によって、村々にあって商工業の仕事をもつものは検地帳に記載され百姓身分として位置づけられており、この置目によって松代町人町に住むもののみが町人身分であることが明確にされたのである。と同時に、新しく移住した町人にたいしても、もとからいた町人にたいしても役儀(夫役(ぶやく))は一律にかけられており、前領主からの特権を排除し、町を上からまとめていることがわかる。
置目の第八条には「家主のいない屋敷は召し上げる。町奉行の指図を得ない家の売買は一切まかりならず」とあり、町人の土地私有を制限し、町奉行には家屋敷にたいする与奪権があったことがうかがえる。寛永年間(一六二四~四四)の「町中家売り申し候覚」には売り渡される一軒ごとに町中年寄と検断、あるいは肝煎(きもいり)と検断が立ち会い売り渡したと町奉行に届けられている(『新史叢』⑯二九八頁)。『松代町史』続では、「伴家由緒書」に信之が入封する以前から「町始め御せい札場御取締まり候様に聞伝え侯」とあり、「御せい札場御取締まり」という検断にあたる町役人がすでにいたという。真田信之はすでに城下町にあった町中年寄や検断など自治的組織を町奉行のもとにまとめ、町奉行という職掌による城下町支配機構を整えたといえよう。
寛文年間(一六六一~七三)に記された「八町間帳」(『新史叢』⑱二七九頁)では、伊勢町分の間(軒)数として「家数合わせて八十二間、但、木町・伊勢町・かがみや(鏡屋)町本家(ほんや)・合家(あいや)共ニ」と記されている。町八町のひとつ伊勢町は二つの枝町をふくみ、枝町に居住する人も伊勢町にかけられた役儀を負担していることがわかる。枝町は城下への人口集中で町がふくらんでいったことを示す。置目にいう「町」・「町中」・「町人」とは「町八町」とよばれる八つの町とその枝町をふくんだ場所を指していて、これらの町場が「町」扱いされたといえよう。町が負担する役儀は町ごとに異なり、北国街道の公用荷物を運搬する伝馬役や藩の荷物を運搬する人足役のほか塩役や城普請の人足役など多様な課役を負担した。そして「町人」は城下の祭礼に参加することができた。
正保(しょうほう)四年(一六四七)の「信濃国郷村帳」(『県史』⑨一)には、「一(ひとつ)、高百七十一石一斗四升 皆畑 紙屋町」と記され、八町のうち紙屋町だけが石高に結ばれている。三代藩主幸道に幕府からあたえられた寛文(かんぶん)四年(一六六四)の「真田幸道領知状ならびに目録」(『県史』⑦一九)の目録には、埴科郡の末尾に「紙屋町村」とあり、「信州河中島十万石本田・新田高辻」(『県史』⑦二〇)には「一、高百七十一石一斗四升 紙屋町 村数の内に入れる」とあり、紙屋町は一七一石二斗四升の紙役年貢を年貢として納めた。これ以外の各町が負担した役儀はまったく石高に結ばれていない。大名が当然徴収したであろう地子(じし)は、町ごとに負担した役儀によって免除されていたと考えられる。紙屋町が「村数」のうちに入るのは、高辻のうちに結ばれているからであって、紙屋町は町であって村なのである。町扱いされることは、地子免除がされているかによるのである。
寛永十年の置目によって真田信之による城下町支配の基礎が形づくられた。やがて城下への人口が集中し、侍町や町人町のなかや寺町の境内など町の間隙に住む人びとが生まれていった。これらを「町外町(ちょうがいまち)」として把握するのは江戸中期にいたってからである(四章二節「松代町」参照)。