川中島一万石領主の推移

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元和(げんな)八年(一六二二)真田信之が松代へ去ったあとの上田には、小諸から仙石忠政(せんごくただまさ)が移された。領知は上田領八六ヵ村、五万石と、川中島領八ヵ村、一万八八石八斗五升三合である。川中島領は稲荷山(いなりやま)(更埴市)、塩崎・岡田(篠ノ井)、今里・今井・戸部・上氷鉋(かみひがの)(川中島町)、中氷鉋村(松代領と分け郷、更北稲里町)で、「川中島八ヵ村」とよばれた。

 川中島一万石の所領の変遷はこれまで数々の諸説があり、判然としていない。近世初頭の北信濃は上杉景勝領、豊臣氏蔵入地、森忠政領、松平忠輝領へと転変したが、ここまでの領主は豊臣氏蔵入地時代をのぞいて北信濃一円を支配した。一円支配がくずれたのは、慶長十九年(一六一四)に松平忠輝の本拠地が越後へ移り、水内・高井両郡に大名・旗本の所領や幕府領が形成されたときである。その後も水内・高井両郡では所領分割があった(二節参照)。松平忠輝は慶長十六年八月に、重臣で松代城代の花井吉成に松代城を中心とした二万石の知行地をあたえた(『信史』21九三頁)。また忠輝の本拠が越後に移ったあとの十九年八月には、吉成の長男花井義雄へ五〇〇〇石の知行地をあたえている(中嶋次太郎『松平忠輝と家臣団』)。その内訳は、桑原村・内川村(更埴市)、四ッ屋村・今井村(川中島町)、若宮村(戸倉町)、二ッ柳村・東福寺村(篠ノ井)、中越村(吉田)、沼目村(須坂市)であった。川中島八ヵ村の今井村が忠輝の越後移転後も忠輝領であることから、他の七ヵ村も同様に忠輝領であったと思われる。

 元和二年の忠輝改易のあと、北信濃一二万石で松平忠昌が入封した。忠昌の領知目録がないため、領知下の村を特定できない。忠昌は元和四年に二五万石で越後高田へ得替えし、かわって一〇万石で酒井忠勝が入封した。酒井には「信州川中島御知行目録」(『信史』22五八五~五九五頁)がある。これには川中島八ヵ村がないから、川中島八ヵ村は酒井忠勝領ではなく、別の支配下にあった。この領知目録は元和八年にそっくり真田信之に引きつがれた。決定的な史料を欠くが、川中島八ヵ村は元和二年に松平忠昌領となり、忠昌の越後高田移封のとき幕府領になったか、あるいは元和二年の忠輝改易を機に幕府領になったかのいずれかであったと考えられる。なお、かつては元和二年「信濃川中島一万石」入封の岩城貞隆(いわきさだたか)領を川中島八ヵ村にあてる向きがあったが、岩城領は高井郡岳北地方である(一項参照)。

 宝永三年(一七〇六)に仙石政明(まさあきら)と入れかえで但馬国出石(いずし)(兵庫県出石郡出石町)の松平忠周(ただちか)が上田城へ入封した。川中島八ヵ村一万石は引きつづき上田領であった。享保二年(一七一七)に松平忠周が京都所司代(しょしだい)になるにあたり、川中島領は近江(おうみ)国(滋賀県)と替え地で幕府領となる。享保十五年ふたたび上田領にもどり、同じ年に塩崎・今井・上氷鉋村と中氷鉋村の一部の五〇〇〇石が藩主松平忠愛(ただざね)の弟松平忠容(ただやす)に分知され旗本塩崎知行所となり、明治維新にいたった。