仙石氏上田藩の成立

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元和八年(一六二二)に、仙石忠政は小諸城から上田に移され小県・更級両郡のうちに領知を得て、同年幕府代官の高室昌成(たかむろまさなり)から「信濃国小県郡上田領并(ならびに)川中島残物共高石帳」(『県史』①二四)が渡された。寛永二年(一六二五)十月には、将軍徳川家光から領知状と領知目録をあたえられた。仙石氏の祖仙石秀久は豊臣秀吉に仕(つか)え、四国征伐のとき敗北し改易されたが、天正(てんしょう)十八年(一五九〇)小田原征伐のときひそかに参陣し手柄を立て、小諸城と佐久郡一円五万石を宛行(あてが)われた。その後徳川氏に仕え、仙石忠政(ただまさ)のとき大坂の陣で戦功があり、徳川家康に重用されたという。忠政、政俊(まさとし)、政明の三代にわたり上田にいた。

 仙石氏の支配は、真田氏時代の地方知行(じかたちぎょう)制や貫高(かんだか)制を継承した。地方知行とは家臣へ領内各地に知行地をあたえ、その土地や人民にたいし、年貢徴収や農民使役などの支配権をあたえるものである。年次不詳の「仙石政明家中分限帳(ぶんげんちょう)」(『県史』①三九)によると知行地は小県地方に限られ、川中島八ヵ村に知行主はいない。したがって川中島八ヵ村は藩直轄の蔵入地(くらいりち)である。また小県領内では貫高によって田畑の収穫高が表記され掌握されたが、川中島八ヵ村は、慶長三年(一五九八)の豊臣氏による四郡総検地によりすでに石高制が実施されていたため、仙石領となってからも貫高による表記はされなかった。領内の支配は「組」という組織をつくって行政単位としたが、川中島八ヵ村は組名をつけず、まるごと組同様の行政区画とされていた。

 庄屋・組頭(くみがしら)・長(おさ)百姓など村役人制度や貫高帳、五人組帳なども仙石氏のときに整備されており、小県地方の支配体制は仙石氏によって確立された(二章二節「上田藩川中島領の政治と塩崎知行所の成立」参照)。なお、二代仙石政俊の正保元年(一六四四)十二月、幕府から国絵図と郷帳・城絵図の作成が命じられている。仙石政俊と松代の真田信之、飯山の松平忠倶(ただとも)、飯田の脇坂安元、松本の水野忠清の五大名と幕府代官らが命じられた。郡を分担して作成され、仙石氏は小県郡と佐久郡の二郡を担当し、松代藩がまとめて幕府に提出した。国絵図は絵図によってその支配領域を空間として掌握することを目的とし、郷帳(ごうちょう)という郡村ごとに田畑の石高や村名などを書きあげた土地台帳とともに管理されている。さらに幕府は、元禄十年(一六九七)閏(うるう)二月に、正保以降の国内の変化を調査し国絵図と郷帳を改訂するよう命じた。信濃国内の「絵図元」四大名のひとりとして三代上田藩主仙石政明が任じられた。

 宝永三年(一七〇六)正月、仙石政明は但馬国出石へ五万八〇〇〇石で移された。かわって出石から松平忠周が五万八〇〇〇石で入封し、川中島八ヵ村一万石は引きつづき松平氏の領知するところとなった。


写真23 現在の上田城跡 (上田市上田)