家康の寺領寄進と小割証文

68 ~ 70

慶長三年(一五九八)正月、越後国(新潟県)から北信濃四郡にかけての領主である上杉景勝は、豊臣秀吉の命により、陸奥(むつ)会津(福島県会津若松市)へ一二〇万石で移封した。そのあと、北信濃四郡の中央部は豊臣政権の蔵入地となり、尾張(愛知県犬山市)犬山城主石川光吉(いしこみつよし)らによる太閤検地で村高がきまった(一章一節参照)。同年八月の秀吉の死後、豊臣秀頼はその蔵入地の一部をさいて善光寺へ寄進したと考えられる。

 慶長五年九月に関ヶ原の合戦に勝利して徳川政権の実現を決定的にした家康は、翌六年七月、早くも善光寺に一〇〇〇石の領知をあらためて寄進し、「仏事勤行(ぶつじごんぎょう)と諸役人への配当などは以前からおこなわれてきたようにするべきだ」とした(『市誌』⑬七〇)。この善光寺への寺領寄進は、信濃国では、慶長十七年五月の戸隠山神領(一〇〇〇石)にくらべても一段と早く、慶長五年の山城(やましろ)国(京都府)石清水(いわしみず)八幡宮(京都府八幡市)の西坊(六四石)などの諸坊、同七年の大和国唐招提寺(とうしょうだいじ)(奈良市、三〇〇石)や薬師寺(同、三〇〇石)などの畿内(きない)の有力な諸寺社と肩を並べうる時期である。そこに、善光寺を重視する家康の姿勢がうかがえる。


写真24 慶長6年(1601)7月徳川家康寺領寄進状 (元善町 善光寺大勧進蔵)

 ついで、家康は同年九月、寄進した寺領一〇〇〇石の村別と使途の内訳高を示すため、領知割目録をくだした(『市誌』⑬七一)。その内訳は、長野村二五〇石、箱清水村(箱清水)二七四石三升、七瀬川原村(芹田)四〇六石一斗七升四合、三輪村(三輪)のうち六九石七斗九升六合である。なお、慶長八年十一月、朝日山(旭山)が大峰山と並んで、善光寺の造営料所に指定されるにともない(『信史』⑲五五一~五五二頁)、三輪村六九石余は、朝日山のふもとの小柴見(こしばみ)村(安茂里)の一部と交換となったと考えられる(安茂里 宮島賢治蔵)。そのとき以来、小柴見村から六九石余が分かれ、平柴(ひらしば)村として善光寺領に編入された。なお、慶長七年を中心におこなわれた松代城主森忠政の北信濃四郡の領内総検地の結果作成された「信濃国川中島四郡検地打立之帳」には、当然ながらすでに善光寺領となっていた村々は、分け郷の三輪村を除いて記載されていない。

 さて、寺領一〇〇〇石の使途は、造営免として三〇〇石を、善光寺の二大塔頭(たっちゅう)である大勧進(だいかんじん)(天台宗)と大本願(だいほんがん)(浄土宗)とに認めたが、これは両者で一五〇石ずつ折半された。このほか、大勧進には、本堂でとりおこなわれる仏事の灯明免(とうみょうめん)と仏供免(ぶっくめん)としてそれぞれ一二〇石、知行分として一〇〇石、あわせて四九〇石があたえられた。いっぽう、大本願へは、造営免一五〇石のほか、知行分五〇石、大工免三六石の合計二三六石があたえられた。また、大勧進か大本願のいずれかに所属する善光寺三寺中の衆徒(しゅうと)二一人に一六八石、中衆(なかしゅう)一五人に七五石、妻戸(つまど)一〇人に三一石が支給された。衆徒は天台宗、中衆は浄土宗、妻戸は時宗である。妻戸は貞享(じょうきょう)二年(一六八五)に天台宗に改宗させられたので、妻戸の分をふくめると、大勧進系統に六八九石、大本願系統に三一一石が配分されたことになる。この一〇〇〇石の村別の石高と使途の内訳をきめた証文は、寺内では小割(こわり)証文といわれている。

 このようにして、近世善光寺領一〇〇〇石が成立し、また、善光寺を構成する大勧進と大本願の領知配分が確定した。寛永十二年(一六三五)、大勧進は徳川将軍家の菩提所である江戸上野の東叡山(とうえいざん)寛永寺(天台宗)の末寺となることにより、江戸幕府と直結して、善光寺一山での勢力をひろげようとした。これにたいし、大本願は三代将軍家光のころから江戸城大奥と結びつき、大勧進に対抗した。