水内郡栗田村と戸隠山神領

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戸隠は古代・中世から全国に聞こえた神社で、奥院(奥社)・中院(中社)・宝光院(宝光社)からなり、修験者(しゅげんじゃ)の道場として知られていた。同時にまた、三院は顕光寺としても繁栄しており、神仏習合の地であった。

 慶長十七年(一六一二)五月、徳川家康は戸隠神社に一〇〇〇石の神領を寄進した。その内訳は、「先の寄進」として栗田(芹田)、二条・上楠川(かみくすかわ)(戸隠村)の三ヵ村であわせて二〇〇石、「新寄進」として上野(うえの)村と栃原(とちはら)村内の下楠川・宇和原・奈良尾(戸隠村)の三ヵ村で八〇〇石であった(『県史』⑦四六六)。ここにいう「先の寄進」とは、おそらく上杉景勝以来の戸隠山への神領寄進を家康が踏襲していたものであろう。

 一〇〇〇石の配分先をみると、別当分五〇〇石、社僧分三〇〇石、社家分二〇〇石であった。別当とは戸隠山神領の領主で、戸隠一山を統治し、勧修院(かんじゅいん)とか本坊とか戸隠山御役所ともよばれた。社僧分三〇〇石は奥院一二院の僧侶のみに配分され、宝光院・中院の僧侶には配分されなかった。これは、中院・宝光院の衆徒には、檀家があり御師(おし)の収入が多かったので、その収益が見こまれたからだといわれている。社家分二〇〇石は、中院の集落のはずれにある火之御子(ひのみこ)神社の社家(神主)栗田氏に配分されたものである。中世の戸隠山では、山栗田氏が大きな力をもっていたが、その多くが慶長三年の上杉景勝の会津移封にともない上杉藩士となり、あとに残った栗田氏は社家として、政治には関与できなくなり、追通(おっかよう)村(戸隠村)、下楠川村の原山と転々とし、万治(まんじ)二年(一六五九)以降は二条村に定住した。

 また、同じく慶長十七年五月、戸隠山法度(はっと)がくだされ、江戸幕府の戸隠一山への基本方針五ヵ条が定められた(『県史』⑦四六七)。①顕光寺三院(奥院・中院・宝光院)の衆徒となるには、かならず灌頂(かんじょう)を受けなければならない。ただし、戸隠山の再興の節から功績のあったものは一代限り住僧として認める。②先師から相続した坊であっても破戒僧は追放する。③平(ひら)坊(三院)の衆徒は他の院坊職を兼帯することはできない。④伽藍(がらん)・僧坊の修造などは大坊(別当)の認可を必要とする。⑤衆徒の徒党は厳禁する。以上の五ヵ条は、代々の別当の戸隠一山の施政方針ともなり、「守護不入」の神領朱印地が誕生した。


写真27 戸隠山神領の山中支配領内守護不入の碑
 (戸隠村 中社)

 戸隠神領一〇〇〇石の大部分は戸隠山麓(さんろく)の上野村(戸隠村)などに集中していたが、うち八〇石のみが戸隠から遠くはなれた長野市域の栗田村の一角に存在した(幕府領と分け郷)。おそらく、これは栗田村が里栗田氏の本貫(ほんがん)の地であり、その分流の山栗田氏が別当をつとめる戸隠神社に里栗田氏がその領地の一部を寄進したものが、そのまま残ったものと思われる。戸隠山神領栗田村八〇石の村政をみよう。これに関する史料はきわめて少ない。その多くが『近世栗田村古文書集成』に収録されているので、以下これによってみる。天保十一年(一八四〇)三月、神領八〇石の総家数は一五軒で、うち一軒は京都の吉田神道の神主兼百姓、残り一四軒は百姓であった。総人数は六九人、うち男三一人・女三八人である。うち九人は、この年、他所へ一季奉公に出ていた。一四軒は善光寺西町(西町)西方寺と東之門町(東之門町)寛慶寺(かんけいじ)の檀家であり、残り一軒は権堂村(権堂町)明行寺(みょうぎょうじ)の檀家である。一五軒は三つの五人組に編成され、別当の命をうけた庄屋(一人)・組頭(一人)、長(おさ)百姓(二人)のもとで日々の生活を送った。また、天保十年の場合には、神領栗田村からは取籾(年貢籾)として一六〇俵、口籾として六俵二斗、しめて一六六俵余を納付した。戸隠山神領の年貢は、じっさいに米穀で納める部分の穀方(納付高の三分の一)と金納部分の麻方(三分の二)とに分かれていた。正徳元年(一七一一)、神領栗田村では、水帳の作成がおこなわれているが、これ以後、穀方と麻方とに分けて納入する方法が廃止され、穀方一本となった。しかし、他の神領村々は標高一〇〇〇メートル前後に立地し、年貢をすべて穀納とすることはむずかしいので、この穀方部分については、じっさいに穀納するか金納にするかは、神領の百姓の自由裁量にまかされていた。そこで、穀納が不可能な百姓は、納めずにそのままにしておくから未進として残る。それを翌年の年貢納入時に代金納する。これを未進方という。したがって神領の年貢納入方法は、穀方と未進金納方とにその形態をかえていった。なお、未進方の代金納の換算値段は松代藩御立相場を採用した。神領栗田村の場合、天保十年十一月の皆済状からみて米納であった。戸隠山神領のなかでは、神領栗田村の年貢率は五割で一番高く、定免(じょうめん)であった。上楠川村が二割で一番低く、他の諸村は一律に三割五分であった。このようにみてくると、神領栗田村は高八〇石とはいえ、戸隠役所にとっては有力な米倉であったといえよう。