飯縄(いいづな)(飯綱)は戸隠と並んで、修験道場として知られており、飯縄権現は武芸の神としての性格をもっていたこともあって、戦国時代、武田・上杉などの戦国武将たちの信仰を集めていた。武田も上杉も飯縄へ神領を寄進しているが、慶長九年(一六〇四)七月、大久保長安も徳川家康の意をうけて荒安村(芋井)において一〇〇石の神領を寄進した。慶安(けいあん)二年(一六四九)八月には、三代将軍家光の朱印状がおり、荒安村一〇〇石の神領が追認され、社中山林・竹木の諸役などが免除され、社辺掃除の神役を従来どおりおこなうことが課された。領主は、中世以来の飯縄の神主千日太夫の流れをくむ仁科甚十郎で代々その名を襲名し、御屋敷様とか御役所とかいわれ、飯縄神社里宮に隣接する地に屋敷をかまえた。
このようにして成立した飯縄神領ではあるが、わずか一〇〇石の領知であり、そのまわりを囲む一〇万石松代藩の支配三ヵ所のひとつとして、善光寺および八幡(やわた)村(更埴市)の八幡宮(武水別(たけみずわけ)神社)と並んで、その統治下に入った。荒安村の人口は、享和元年(一八〇一)の場合で、男五七人・女七四人、計一三一人で、横棚村(茂菅)の静松寺(じょうしょうじ)など七ヵ寺の檀家となり、村役人には名主・組頭・長百姓各一人がいた(芋井 山田清蔵)。
つぎに年貢関係をみると、安永四年(一七七五)八月の場合で、籾一一一俵一斗二升が納入されている。そのうち、一〇俵一斗八升余が餅(もち)籾、一四俵二斗二升余が大豆・蕎麦(そば)で納められ、一俵二斗五升が飯縄山御年貢、二俵二斗五升が梨久保(なしくぼ)山御年貢として納付され、残り籾八二俵余が金納されたものと思われる(『県史』⑦二五三)。文政七年(一八二四)の場合では、納付高は籾九五俵一斗二合九夕四才で、うち一一俵二斗五升が小物成、二九俵四斗六升余が月割上納高、一俵二斗五升が飯縄山御上納分、二俵二斗五升が梨久保山御上納分、二俵が村方御手充(おてあて)、一俵一斗二升余が寅蔵分御手充、残り籾四六俵二斗五升余が金一一両二分二朱と銭一九二文で金納されている(『県史』⑦二七〇)。
なお、飯縄神領の領主として、仁科甚十郎の名がはなばなしく歴史の舞台に登場するのは、寛文(かんぶん)十一年(一六七一)七月、明和五年(一七六八)三月、天保十三年(一八四二)正月の三回にわたる飯縄山の入会(いりあい)をめぐる松代領葛山(かつらやま)七ヵ村(芋井)と戸隠神領上野村の争いであろう。これは飯縄神領と戸隠山神領との飯縄山の帰属争いでもあった。寛文と明和の裁許では上野村がわが勝訴したが、天保期では逆転して葛山七ヵ村がわが勝利して、飯縄山全山は仁科氏の支配下になり、七ヵ村がわは飯縄山への出入りが自由となった(六章二節三項「入会山論と百姓割山」参照)。