元和(げんな)八年(一六二二)十月、上田から松代へ突然移封(いほう)された真田信之(のぶゆき)は、信濃国では更級・埴科・水内・高井の四郡で一〇万石を領知し、上田時代にくらべ四万石の加増となった。このほか、上野(こうずけ)国利根郡沼田(群馬県沼田市)で三万石を領し、あわせて一三万石の領主となった。信之は、長男信吉(のぶよし)に沼田三万石を、次男信政(のぶまさ)に四郡のうちで南牧村(信州新町)など一九ヵ村で一万石を、三男信重に有旅(うたび)村(篠ノ井)など一一ヵ村で七〇〇〇石を分知した。しかし、寛永十六年(一六三九)信吉は三八歳で没し、そのあとをついだ二歳の長男熊之助もまもなく亡くなったので、信之は信政に沼田三万石のうち二万五〇〇〇石をつがせ、残りの五〇〇〇石は熊之助の弟兵吉(のち、信利と改名)に分けあたえた。このとき、信政が領有した四郡の一万石は弟信重が先の七〇〇〇石とあわせて領有したが、信重には後継者がいなかったため、死後、再度信之の領地に組みこまれ、信之は一〇万石を領知することになった(一章三節二項「真田氏の松代入封」参照)。このあと、図1のように信政・幸道(ゆきみち)・信弘(のぶひろ)・信安(のぶやす)・幸弘(ゆきひろ)・幸専(ゆきたか)・幸貫(ゆきつら)・幸教(ゆきのり)とつづき、一〇代幸民(ゆきもと)にいたって廃藩置県を迎える。
さて、松代歴代藩主の治績を記す主な著書には、寛政改革の一環として文化九年(一八一二)に成立した幕府編さんの『寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)』がある。これは、歴代の大名・旗本・御家人について、その系図や対幕府勤仕を中心に編さんしたものであるが、寛政年間(一七八九~一八〇一)までの藩主で終わっている。松代藩の場合でみると、七代幸専までである。つぎに、八代幸貫のとき、藩政改革のひとつとして藩命により河原綱徳(かわらつなのり)が編さんした『真田家御事蹟稿(ごじせきこう)』六〇巻がある。これは、真田幸隆(ゆきたか)以下、信綱(のぶつな)・昌幸(まさゆき)・信之・信政など初期真田家の武将の系譜・事蹟を文書や記録を中心に記述したもので、初期の藩政の実態を知るのに不可欠なものである。その続編である『真田家御事蹟続編稿』は、河原綱徳の編さんに協力した飯島勝休(かつよし)が明治五年(一八七二)に完成させたもので、その内容は、信之・信政・信吉の三人の経歴について記述している。これらをうけて、真田氏開府三〇〇年祭を記念して編さんされたものに、昭和六年(一九三一)刊行の『松代町史』上・下巻二冊がある。このなかでは、歴代の藩主ごとに、その治績を詳細に記述している。
太平洋戦争(一九四一~四五)後、昭和五十一年に『長野県上水内郡誌』歴史篇、昭和五十五年、五十六年に『更級埴科地方誌』第三巻近世編上・下巻が編さんされた。前者は、『松代町史』をベースに歴代藩主の系譜や治績にふれている。後者は、藩主の系譜・官位・在任期間・対幕府勤仕などを詳記している。また、昭和六十三年三月に創刊された雑誌『松代』は、主として真田家・松代城下町・松代藩士の動向などに関する論稿を掲載している。ここでは、以上の研究実績をふまえて歴代藩主の経歴を政策中心にのべていこう。
(一) 初代信之 永禄(えいろく)九年(一五六六)生まれ。元和八年(一六二二)十月~明暦(めいれき)二年(一六五六)十月在位。伊豆守。万治(まんじ)元年(一六五八)十月没。
元和八年十月に上田から移封した信之の緊急の課題は、まず領内支配の基礎固めをおこなうことにあった。そこで、移封の翌九年、まず領内の由緒ある寺社である更級郡八幡村(更埴市)の八幡宮(武水別(たけみずわけ)神社)や埴科郡矢代村(同)の山王社(須須岐水(すすきみず)神社)などに禁制(きんぜい)を出したり、祭料を寄進したりして掌握し、ついで翌寛永元年(一六二四)から有力家臣に知行地をあたえたり、足軽を預けたりした。知行地を給された家臣を地頭(じとう)とか給人(きゅうにん)、知行主という。これは、上田時代の地方知行(じかたちぎょう)制(二項「家臣団の構成と地方知行」参照)を保証したものであるが、知行地を徹底的に分散したり、知行地の年貢率を三五パーセントに固定化したり、地頭を城下町へ集住させるなど、地頭の在地支配の骨抜きをおこない、藩主の一元的支配権を強化した。また、寛永三年から、たびたび領内の隠田(おんでん)の摘発や新田開発の励行をおこない年貢の増徴をはかった。同十年には、町奉行心得(『信史』26五七~五九頁)を発布して松代城下町の支配を固め、ついで同十四年十月には、職(しょく)奉行心得(『信史』27一五二~一五四頁)を制定し、領内の訴訟と行政一般を公平にすすめることを打ちだした。さらに、承応(じょうおう)三年(一六五四)には、郡(こおり)奉行法度(はっと)(『市誌』⑬二)を発布し、年貢・課役関係などを規定した。このように、民政の中心となる三奉行制を整え、領内支配にあたる行政組織を整備した。さらに、寛永十五年には、幕府のキリシタン禁令にもとづき領内のキリシタンの取り締まりにものりだした。
なお、信之が松代に入封(にゅうほう)するころには、松代城下町はすでに町割りがおこなわれていたようであるが、そこに信之は上田城下から菩提寺(ぼだいじ)の長国寺(松代田町)や大英寺(同柴町)・大林寺(同寺町)などの寺を移し、町を再編成したと考えられる。また、信之にしたがってきた上田や沼田の商工業者らも松代へ移住することで、松代の町人に融合されていった(一章三節二項「真田氏の松代入封」参照)。
幕府への勤仕としては、寛永十三年の江戸城惣郭(そうくるわ)の造営がある。このとき、松代藩は一二五の諸大名とともに高一〇万石分、一万三三九七坪余(土坪)の外堀の普請手伝いをおこなった。この外堀普請は、江戸城の惣構えの完成であると同時に、四ッ谷・赤坂などの町々を外郭の西南部に向けて開発させる都市計画の一環としておこなわれたものである。また、同十六年には西の丸石垣の修復手伝普請を一一九坪余(石坪)命じられた。また、正保(しょうほう)二年(一六四五)の江戸城御堀ざらいは、久保田(秋田)藩など六藩、拝領高計五四万五〇〇〇石にたいして命じられたもので、そのうち松代藩は高一〇万石分、坪数一万八一五六坪余(土坪)を請け負った。この御堀ざらいは、一〇年前の寛永十三年に構築された江戸城外郭の西の一角である(北原糸子「真田家の手伝普請」)。また、正保元年には、他の四大名とともに信濃国絵図・城絵図・郷村帳の作成を命じられ、これをまとめて信之が幕府に提出した。
信之は、明暦(めいれき)二年九一歳で埴科郡柴(しば)村(松代町)に引退したが、これにしたがう藩士は近習五〇人など総勢三五〇人余であったといわれる。その二年後の万治(まんじ)元年、信之は九三歳の長い人生に幕を閉じた。なお、真田家の松代町での菩提寺は、曹洞宗長国寺である。江戸での位牌所(いはいじょ)は麻布(あざぶ)(東京都港区)の盛徳寺である。盛徳寺は、ビルの谷間に埋没していくなかで、昭和四十七年(一九七二)、神奈川県伊勢原市に移転している。また分骨が、紀伊国高野山蓮華定院(れんげじょういん)(和歌山県伊都郡高野町)に埋葬されている。
(二) 二代信政 慶長(けいちょう)元年(一五九六)生まれ。明暦二年(一六五六)十月~同四年(万治元年、一六五八)二月在位。内記。明暦四年二月没。
明暦二年十月、信之の隠居引退にともない、信之の次男沼田領主信政がそのあとをつぎ、二代松代藩主に就任した。このとき、信政は鎌原外記(かんばらげき)など一二〇人余の沼田侍をともない松代入りした(『新史叢』⑱一六~二九頁)。このとき、信政はすでに六〇歳になろうとしており、高齢での藩主就任であった。二年後の同四年二月には没してしまったので、みるべき政策はない。わずかに対幕府勤仕として、明暦三年の振袖(ふりそで)火事にともなう江戸城の類焼で、江戸城堀ざらい普請があるが、その堀ざらいが江戸城の惣堀でもっとも深く、その普請に藩費二万五〇〇〇両を費消して、大きな犠牲を払ったので、「真田の泣き堀」とよばれたという。
信政の死後、三代藩主にだれが就任するかで、沼田領主信利(のぶとし)を推す派と信政五男で二歳の幸道を推す派との争いが生じた。信利は、父信吉が信之の長男であること、信吉の奥方がさきの老中酒井忠世の女(むすめ)であり、ときの老中酒井忠清が忠世の孫であることなどを利して幕府に働きかけたが、松代藩家臣団の多数は強く反対し、信政の幸道を後継としたいという遺言状があり、一当斎(いっとうさい)(信之の隠居名)の老中への働きかけもあって、幸道の相続がようやく決定した(一章三節二項「真田氏の松代入封」参照)。
(三) 三代幸道 明暦三年(一六五七)生まれ。万治元年(明暦四年、一六五八)~享保(きょうほう)十二年(一七二七)在位。伊豆守。享保十二年五月没。
明暦四年六月、幸道はわずか二歳で三代藩主に就任した。幼少であるため、幕府は幸道の姉婿遠山政亮(まさすけ)(頼直(よりなお))の父である磐城平(いわきたいら)(福島県いわき市)藩主内藤忠興(ただおき)を後見役につけ、ほかに目付役二人を三年間松代へ派遣した。藩政での主なものをみると、寛文(かんぶん)六年(一六六六)のいわゆる寛文指出(さしだし)総検地がある。信之の入封以来、藩は慶長七年の森検地をもとに年貢を徴収してきたが、実態と食いちがってきたので、改めて基準になる検地の作成を領内全村でおこなった。これは、以後の松代藩での検地の基本台帳となったものであり、頭判(かしらばん)(本百姓)の所持高を掌握すると同時に、頭判と判下(はんした)とに二分される藩の百姓身分も明確にした(三項「寛文指出検地と宝暦・明和・安永期以降の検地」参照)。また、高田村(古牧)の助弥(すけや)らが主導した二斗八(にとはち)騒動の結果、延宝(えんぽう)二年(一六七四)十一月にいわゆる延宝二年の「定め」が出され、地頭知行地をふくむ全領において年貢籾五斗俵を玄米二斗八升とするなど年貢・課役の軽減があった。その二年後には、百姓たるものは耕作を第一とするなどの在中法度(ざいちゅうはっと)(『市誌』⑬一一)が出され、さきに出された明暦三年の幕府触書とともに、以後の藩の村支配の中心的な法度となってゆく。また、元禄(げんろく)十年(一六九七)には、「山里村々堂宮改め帳」が九つの「通り」ごとに作成され、寺以外の堂・宮を把握した。
幕府への勤仕では、天和(てんな)二年(一六八二)の越後騒動による松平光長改易(かいえき)後の高田領検地、翌三年の日光大地震にともなう東照宮御手伝い普請、元禄三年の高遠藩主鳥居忠則(ただのり)の改易にともなう高遠領の検地、さらに同十年二月の信濃国絵図・郷帳の作成がある。同十三年には、再建中の善光寺本堂から出火し、その再建を命じられた松代藩は、宝永四年(一七〇七)ようやく完成させた。現在の善光寺本堂である。この年十一月には、富士山が噴火して宝永山が出現し東海道などに降灰被害が出たので、幕府は松代藩へもその復旧工事を課してきた。同八年三月の朝鮮使節の接待、享保十年の松本城主水野氏の改易にともなう城地受け取りの出役など、つぎからつぎへと幕府の課役をうけた。このような幕府の課役は他の諸藩にも課せられたが、松代藩の負担度は他藩に比し重かったものと思われる。このため、初代信之の遺金約二四万両ほどは使いはたしたといわれる。そこで、元禄十五年には、井筒(いづつ)屋十右衛門・鎰屋(かぎや)権三郎など京都商人から借財をしはじめるようになり(『市誌』⑬一二・一三)、城下の商人八田孫左衛門からも二一万六六〇〇両余と籾四六万四八〇〇俵を借り入れた(『市誌』⑬一六)。
また、享保二年二月の湯本火事、同年四月の関口火事で松代の城内・侍屋敷・町屋敷などが大部分焼失し、その再築のため幕府から一万両を拝借し、翌年には城の再建がなった(『市誌』⑬一五・一七)。なお、正徳(しょうとく)元年(一七一一)松城は松代と改められた。
(四) 四代信弘 延宝六年(一六七八)生まれ。享保十二年(一七二七)七月~元文(げんぶん)元年(一七三六)十二月在位。蔵人(くろうど)。出羽守。伊豆守。弾正忠(だんじょうちゅう)。元文元年十二月没。
幸道の一子は、早世してしまったので、三代幸道の兄信就(のぶなり)の六子が幸道のあとをつぎ、四代信弘となった。三代幸道のとき、幕府から前記のような課役があり、また、享保二年の大火があったりして藩財政が窮迫し、その打開策をねることが信弘のときの藩の緊急課題であった。そのため、享保十四年、藩は半知借上(はんちかりあげ)といって藩士から知行の半分を借りあげることを始めていた(『市誌』⑬二〇)。また、町人出身の塩野儀兵衛を家老職勝手係(財政担当)に登用して、藩財政の改善をはかろうとした。
なお、真田家の幕府から拝領する江戸屋敷は、初代信之の明暦元年(一六五五)には麻布台(あざぶだい)今井(東京都港区)にあったが、三代幸道の寛文十二年(一六七二)には、桜田(港区)に移転され、さらに元禄元年には溜池上(ためいけうえ)(港区)へ、さらに同八年には麻布谷町(港区)へと移転した。このころ別に千駄ヶ谷(せんだがや)(新宿区・渋谷区)や本所(ほんじょ)(墨田区)にも屋敷があり、松代藩の上・中・下の三屋敷が発足していたと考えられる。四代信弘の享保十七年、麻布谷町の大名屋敷が上(かみ)屋敷、麻布長坂と麻布南部坂(以上、港区)の屋敷が中(なか)屋敷、ほかに、大塚(文京区)にも屋敷が置かれていたことが判明している。宝暦五年(一七五五)には、この大塚の屋敷が下(しも)屋敷として登録されている。六代幸弘の寛政九年(一七九七)には、上屋敷は麻布谷町、中屋敷は麻布長坂、下屋敷は麻布南部坂・谷中(やなか)三崎(台東区)に置かれた。九代幸教の安政二年(一八五五)上屋敷は外桜田新し橋(あたらしばし)内(千代田区、四五九八坪)、中屋敷は愛宕下(あたごした)(港区、七一五坪)、下屋敷は赤坂南部坂(四八七〇坪)・深川小松町(江東区、四二七三坪)となり、以降移転がなかったものと思われる(『大武鑑』・『武家屋敷名鑑』)。
(五) 五代信安 正徳四年(一七一四)生まれ。元文二年(一七三七)二月~宝暦二年(一七五二)四月在位。豊後守(ぶんごのかみ)。伊豆守。宝暦二年四月没。
信弘長男幸詮(ゆきあきら)の死去にともない、二男信安が家督をつぎ五代藩主となった。この時代、藩財政はますます窮乏化してゆき、塩野儀兵衛のあとをついで家老となった原八郎五郎は、寛保(かんぽう)元年(一七四一)には、享保年間(一七一六~三六)から始まっていた年貢の月割上納や家臣の半知借上制を恒常化した。
翌寛保二年には、戌(いぬ)の満水と語りつがれる千曲川の大洪水があり、人馬の流死や家屋の流失が多数あり、そのうえ山抜けや田畑・堰(せぎ)の被害が続出した。このため、幕府からまた一万両を借り入れざるをえなかった。この満水を期に、藩は一〇万石のうちほぼ三分の一が荒廃状態となり、全体の年貢率は二〇パーセントほどに落ちこんでしまったので、藩の年貢収納高は二、三万石にしかならず、藩の財政状況はますます深刻化していった(笠谷和比古『日暮硯と改革の時代』)。また、洪水のたびに浸水の被害にあう松代城の防水のため、千曲川の河道を城から離して付けかえた作業にも経費がかかった。寛延三年(一七五〇)元旦には、半知借上制がつづくなかで、足軽扶持米の支給がとどこおり、足軽のストライキにまで発展し、数ヵ月もつづいたという(『市誌』⑬二一)。このようなとき、財政改革のため江戸で牢人(ろうにん)田村半右衛門の召し抱えがあり、原の家老職辞任へとつながった。田村は、まもなく家老職勝手係(財政担当)となり、財政改革にのりだした。それは、検見(けみ)や宗門改めを免除するかわりに年貢を一割五分増徴することをはじめ、山中(さんちゅう)村々の金納年貢の現物納化、城下の富豪八田家や郡方役人への才覚金賦課などの施策であった。そのため、寛延四年(宝暦元年)八月、山中七三ヵ村で田村騒動といわれる一揆(いっき)がおこり、やがて田村は失脚した(『市誌』④一三章「支配の動揺と町・村」参照)。この年四月には、越後高田(上越市)を中心とする地震があり、松代領でも死者・重軽傷者五四人が出、城の石垣の崩壊などがあった。このとき、幕府から三〇〇〇両を拝借した。
(六) 六代幸弘 元文五年(一七四〇)正月生まれ。宝暦二年(一七五二)六月~寛政十年(一七九八)八月在位。伊豆守、弾正大弼(だんじょうだいひつ)、右京大夫(うきょうだいぶ)。文化十二年(一八一五)八月没。
信安長男。宝暦二年に宗門改めの実施要領が定式化され、二歳からだった宗門改めを出生からとし、また、肝煎(きもいり)方へ寄りあい、組ごとに宗門改めをすることを頭判(かしらばん)が印判することに改めるなどとした(『市誌』⑬二三)。同三年、評定所心得をきめ、藩政の指針の一つとした。同七年五月に千曲川・犀川(さいがわ)の大洪水があり、領内の被害は大きく財政はさらに悪化し、幕府からまたまた一万両を拝借した。この洪水が宝暦改革の直接の原因となったといわれる。同年八月、恩田木工民親(もくたみちか)が勝手方家老に抜擢(ばってき)され、勘定吟味役(のち郡奉行)の祢津要左衛門・成沢勘左衛門らとともにいわゆる宝暦改革といわれる藩政改革を始めた。
それは、木工の死までつづくが、倹約の励行・綱紀粛正をモットーに具体的にはつぎのような施策を盛りこんだ。①年貢納入については、現物入用籾の残りの分については月割金納方式で納入すること。②家中の切米・扶持籾の村方渡しをやめ、藩の蔵屋敷へ納入すること。③江戸出・御在所御飯米の納め方は、二重俵など入念な俵のこしらえ方などで百姓が難儀をしているので、御在所の分は一重俵で差札なしとする。④万(よろず)小役・諸運上金は今までどおりとするが、不要のものは廃止し、また現物納は必要な範囲に限り多くは月割金納とする、などであった(四項「年貢のしくみと二斗八騒動」参照)。この改革は、全領村々代表との対話による合意の形成という手順をふみ、納得のうえ実施することにつとめ、木工は率先して勤倹清廉(きんけんせいれん)ぶりを示したといわれる。
また、杏(あんず)栽培の奨励がおこなわれ、更級郡石川村(篠ノ井)、水内郡窪寺(くぼでら)村(安茂里)や埴科郡森村・倉科村(更埴市)などでは定着増加し、現在の盛行につながる。明和(めいわ)元年(一七六四)には、肝煎(きもいり)呼称を他領同様に名主に変える訴願が川北(犀川北部)村々から出され、これがきっかけとなって、領内全域で名主とよばれるようになり、藩から名主給が支給されるようになった(『市誌』⑬三一)。翌二年四月には、またまた千曲川・犀川で大洪水があり、城中・侍屋敷・町屋敷などの破損があり、そのうえ本田・新田で五万三八〇〇石余、一九二ヵ村におよぶ田畑の損耗があった(災害史料①)。そこで、藩は幕府から一万両を拝借した。同四年には、藩主の城内居館を本丸から花の丸に移し、以後歴代の藩主はこの花の丸に居住した。
安永六年(一七七七)には、年貢金の皆済期限の繰り上げに反対しておきた安永中野騒動の鎮圧を幕府の命令により飯山藩とともにおこなった。さらに、天明三年(一七八三)に天明飢饉(ききん)により上信騒動がおきると、その警戒にあたり、領境の鼠宿(ねずみじゅく)(坂城町)まで出兵した。翌四年十一月に山中でおきた天明山中騒動では、拝借金の返納延期や年貢の換金率を定める御立相場を安くすることなど、一揆がわの二一ヵ条におよぶ要求をある程度認めざるをえなかった。安永八年四月の蓮乗寺火事、天明八年六月の河内屋(かわちや)火事などの大火で寺院・侍屋敷・足軽長屋などが焼失し、その対応にも追われた。
文化政策ともいうべき点では、宝暦八年藩校の前身ともいうべき稽古所ができ、江戸から菊地南陽を招き、藩営の講釈が始まった。国学関係では、幸弘は賀茂真淵(かものまぶち)の和歌を学び、真淵の弟子の大村光枝(彦太郎)を京都から招き、以後藩内には真淵の学統が広がっていった。いっぽう、俳諧(はいかい)も流行し、天明~享和(きょうわ)年間(一七八一~一八〇四)に江戸で活躍した大島蓼太(りょうた)は、幸弘をとおして松代藩士に影響をおよぼし、幸弘自身も俳号を菊貫などと称し俳諧に精進した。
幕府からは、宝暦八年、江戸城西ノ丸大手御門番を命じられ、同九年には領内と善光寺・飯縄(いいづな)社・八幡宮(武水別(たけみずわけ)神社)のいわゆる御支配三ヵ所の調査を命じられた。また、同十四年と明和元年(一七六四)には一〇代将軍家治(いえはる)の名代として日光参詣を命じられた。
(七) 七代幸専 明和七年(一七七〇)生まれ。近江彦根藩主井伊直幸四男。寛政元年(一七八九)八月~文政六年(一八二三)八月在位。豊後守、伊豆守、弾正忠、弾正大夫。文政十一年七月没。
幸弘の男児はみな若死にしたので、幸弘の女(むすめ)三千姫に彦根藩主井伊直幸の四男順介を迎えた。七代幸専である。井伊家は、譜代大名で大老を出すことができる家格である。外様の真田家が有力な譜代大名から養子を迎えることができたということは、大きな意味があった。ついで、八代藩主に就任した幸貫も老中松平定信の二男であることを考えあわせると、真田家は譜代大名に準ずる家格になったことを意味する。江戸城中では、真田家は譜代大名などが詰める帝鑑間(ていかんのま)に候した。
さて、幸専の時代は、前代にひきつづき藩財政は窮迫していたので、その打開策として領内で殖産興業をさかんにし、そこから運上金を徴収して藩財政を補填(ほてん)しようとした。そのため、松代柴町に紙漉(かみす)き場をもうけたり、東寺尾・東条両村(松代町)で松代焼きを創業させたりした。また、文化五年(一八〇八)に川原砂地や林・畦(あぜ)などに桑苗を植えさせて、養蚕の奨励をおこない、さらに村助成に絹(きぬ)・紬(つむぎ)織りを奨励した(災害史料⑨)。そのためもあって、領内諸村で養蚕業がさかんとなり、その生糸を買いあつめる糸師仲間が結成された。
対幕府関係では、享和元年(一八〇一)大手御門番を命じられた。この大手御門番は文政六年まで一〇回にもおよんだ。翌享和二年には江戸大川(隅田川)筋御船蔵前と本所筋の川ざらい普請手伝いを命じられた。また、文化十年と文政五年閏(うるう)正月および同年三月には将軍家斉(いえなり)の名代として日光参拝をおこなった。
なお、文政三年には幕府領三〇〇〇石の、同五年にはさらに五〇〇〇石の御預かりを仰せつけられた。
(八) 八代幸貫 寛政三年(一七九一)生まれ。陸奥(むつ)白河藩主松平定信二男。文政六年(一八二三)八月~嘉永(かえい)五年(一八五二)五月在位。豊後守、伊豆守、信濃守。嘉永五年六月没。
幸専には実子がなかったので、天明七年(一七八七)から寛政五年まで幕府老中で、寛政改革の推進者であった松平定信の二男を養子に迎えた。幸貫である。かれは文政六年に幸専のあと家督をつぎ、嘉永五年五月隠居するまで三〇年間、藩主の地位にあった。その間、藩政に熱心であり、諸方面で改革にのりだした。まず、文政三年の検地の施行条目である「検地掟(おきて)」、同八年の一〇一ヵ条にわたる刑法規定である「御仕置御規定(おしおきごきてい)」と目付の勤役規定である「永久目付心得の直(じき)条目」、同九年の家中の知行高に応じた軍役の規定である「御軍役御定め」、天保(てんぽう)二年(一八三一)の家中の処罰規定である「御咎(おとが)め取り計らいの記」、同十年の家中の取り締まり規定である「覚え」などの法制整備をおこなった。ついで、天保十四年に裁判・寺社担当の職奉行を廃止し、これを農政・貢租を担当してきた郡奉行に吸収合併し、新たに寺社奉行を設置する職制改正をおこなった。さらに、藩政の参考にとおこなわせた天保十四年の検地改めの沿革調べ、嘉永五年の代官・越石(こしこく)代官・手代・勘定所元〆(もとじめ)の沿革調べなどの沿革調査、また、洋式鉄砲の購入・鋳造や洋式軍制にもとづく砲術訓練などの兵備の強化もおこなった。
また、年頁徴収に限界をおぼえた藩は、領内に発達してきた生糸生産に目をつけ、その生産と販売を独占しようとした。まず、文政九年には、糸会所を設立して京都へ出荷する為登(のぼせ)糸を統制し、天保四年には、産物会所と改称し、絹・紬などの専売をおこなった。しかし、この絹・紬専売制は、生産者の反発や商人間の対立をまねき、膨大な資金の調達からも無理があったため、藩は専売を中止せざるをえなかった(『県史通史』⑥)。そのほか、杏仁(きょうにん)・甘草(かんぞう)などの商品生産を奨励し、嘉永元年にその専売にふみきったが、買い占め資金の不足などで失敗に終わった。
文教の振興策では、河原綱徳に『真田家御事蹟稿』の編さんを命じ、藩内の学問の振興のため文武学校の設立にあたった。また、人材の育成にも熱心で、佐久間象山に儒学や蘭学を、藩医村上英俊(えいしゅん)にフランス学を学ばせた。凶荒対策では、文政八年を中心とした文政凶作や、天保四年から同九年までの天保飢饉では、領内村々に社倉(しゃそう)を建てて貯穀させたり、難渋者へ松代町や村々で施行(せぎょう)をおこなったり、城内数ヵ所の倉庫に米・雑穀を年々貯蔵させたり、どんぐり・わらびなどを救急代用食とする触書を出したりした。また、弘化四年(一八四七)三月に善光寺平を中心におきた善光寺大地震(弘化大地震)では、多数の死傷者、家屋倒壊、火災、地すべりが生じた。この対策のため、幕府から一万両を拝借した。
いっぽう、幸貫は水野忠邦や徳川斉昭(なりあき)に推されて、天保十二年六月から同十五年五月まで幕府老中となり、海防係に就任し、迫りくる欧米列強に対処しようとした。そのため、佐久間象山を抜擢(ばってき)し海防顧問とした。嘉永二年、幸貫は「およそ藩主となったらかならず領地を巡見し、その土地柄を知るべきである」(河原綱徳『朝陽館漫筆』)として、山中(さんちゅう)などを巡覧した。なお、幸貫の晩年、家臣の対立が激化した。恩田頼母(たのも)・河原舎人(とねり)・山寺常山(じょうざん)・佐久間象山らの恩田党と、真田志摩(しま)・鎌原伊野右衛門(いのえもん)・長谷川昭道(しょうどう)らの真田派で、この対立は幕末までつづいた(『市誌』④一四章「幕末動乱と北信濃」参照)。
(九) 九代幸教 天保六年(一八三五)二月生まれ。幸貫孫。嘉永五年(一八五二)五月~慶応二年(一八六六)三月在位。伊豆守、信濃守、右京大夫。明治二年(一八六九)六月没。
幸貫の嫡男幸良(ゆきよし)の病死のため、その子幸教が相続し九代藩主となった。生母は幸良の側室で、藩医村上英俊の妹である。嘉永六年六月の米使ペリーの来航とともに、幕府の海防命令が頻繁となるなかで、翌安政元年(一八五四)二月、小倉藩との横浜警備、同年七月のペリー再来にともなう横浜応接所の警備、また、文久(ぶんきゅう)三年(一八六三)三月の英国船渡来のため、江戸品川近海の警衛などを命じられた。
いっぽう、国内では安政五年の日米修好通商条約をめぐる勅許問題や、翌六年から始まる安政の大獄などから、幕府と孝明天皇の朝廷との関係は悪化していった。そこで、幕府は朝廷と宥和(ゆうわ)をはかるため、孝明天皇の妹和宮親子(かずのみやちかこ)内親王を一四代将軍家茂(いえもち)の夫人に迎えようとし、その実現をはかった。文久元年正月、その行列の警衛と沿道の警固のため、松代藩は他の信州諸藩とともにその任にあたった。また、翌年閏八月の文久改革にともなう参勤交代の緩和による大名妻子の帰国にあたり、幸良夫人の貞松院の住居にあてるため建物を新築しそれにあてた。今にみる新御殿(旧真田家別邸)である。
また、幕末の政局の中心がにわかに京都に移るなかで、文久三年四月、幕命で一〇万石以上の大名は輪番で京都守衛が課されることになり、松代藩は翌元治(げんじ)元年(一八六四)六月、京都御所南門の警衛にあたった。藩の京都での宿陣は、下京の浄土真宗仏光寺(京都市下京区)である。藩はここを拠点に、元治元年七月の禁門(蛤御門(はまぐりごもん))の変では御所の警衛、同年八月には大坂伝法川川口の警備をおこなった。
幸貫のときに手がけた文武学校は、安政二年には開校となり、藩の文武育成の中心となる。同年七月には、寛保二年(一七四二)の戌(いぬ)の満水並みといわれた千曲川・犀川の大洪水があり、藩はその対策に追われた。また、開港後、領内での生産がさかんになった生糸・蚕種・木綿・綿織物などを藩が掌握するため、江戸の三井・大丸屋や高崎の布袋屋(ほていや)善右衛門などの買宿的存在となってきた産物会所を、慶応元年から同三年まで領内村々に三八ヵ所設置し、生糸・蚕種などの産物の掌握と奨励をはかろうとした(『市誌』④一四章「幕末動乱と北信濃」参照)。
(一〇) 十代幸民 嘉永三年(一八五〇)四月生まれ。伊予(いよ)(愛媛県)宇和島藩主伊達宗城(だてむねなり)二男。信濃守。慶応二年(一八六六)三月~明治二年(一八六九)六月在任。明治二年六月~同四年七月知藩事在任。明治三十六年(一九〇三)九月没。
幸教は病弱であり、藩主在任中は子女に恵まれなかったので、宇和島藩主伊達宗城の二男を迎えて養子とした。幸民である。幕末動乱のなかで、藩は佐幕か勤王かで去就に迷うが、慶応四年(明治元年、一八六八)二月、京都留守居(るすい)長谷川昭道の奔走(ほんそう)で、勤王討幕を表明し、京都の新政府から信濃一〇藩の触頭(ふれがしら)を命じられ、戊辰(ぼしん)戦争では甲府・飯山・北越・会津に出兵した。この戦いで、藩は死者五二人・負傷者八三人を出し、また多額な出費を強いられ、藩財政はいちだんと窮迫した。明治二年六月二日、戊辰の戦功により幸民は永世禄高三万石を新政府から下賜された。
同年六月二十三日には版籍奉還(はんせきほうかん)がおこなわれ、翌日松代藩知事を拝命した。これにともない、同年十二月には藩制改革がおこなわれ、いままでの執政・参政などを廃止して、新政府によりいっせいに各藩に大参事・権(ごん)参事・少参事などの役職が新設された。また、藩財政の窮迫にともない藩札二一万両の発行があり、激しいインフレ状況となった。当時、新政府は藩札を太政官札(だじょうかんさつ)と引きかえるよう命令した。その交換相場が太政官札の二割五分引きとされたことから、明治三年十一月には松代騷動が勃発(ぼっぱつ)した。飯田騒動から始まる信濃国の一連の世なおし騒動は、松代騒動と十二月の中野騒動をピークとして終わる。同四年七月には廃藩置県となり、松代藩は廃止されて松代県となり、まもなく長野県に統合された。幸民は東京府華族となり、以後真田家は東京在住となる。
幸民は、藩主として三年三ヵ月、藩知事として二年一ヵ月、その任をつとめたことになる。旧家臣と別れ、上京するにあたり、明治四年九月、つぎのような決別の挨拶(あいさつ)をおこなった(『県史近代』①八八五)。
(前略)数百年の久しきにわたって、祖先以来の厚志誠意のほど感謝にたえない。今よりは互いに東京と松代というように離れてしまうが、御維新以来、仰せだされた御趣意を銘々とくと弁(わきま)え、ひたすら朝旨(ちょうし)を奉戴(ほうたい)し、廟令(びょうれい)を遵承(じゅんしょう)し、相ともに心を同じくし力を一にして、皇恩の万分の一をも報いるよう深く希望する。
時代の流れとはいえ、松代藩最後の藩主とならざるをえなかった幸民の胸には、万感迫るものがあったのであろう。