藩政のしくみ

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元和八年(一六二二)十月、酒井忠勝の出羽国鶴岡(山形県鶴岡市)への転封のあとをうけて、上田藩主真田信之は江戸幕府の命により急に松代へ移封された。そのため、信之は松代藩の新領主として、その支配体制を早急に整えなければならなかった。上田での統治支配機構をある程度引きついだものと考えられるが、元和偃武にともない、番方(軍事)以上に役方(行政)の整備を急ぐ必要があった。

 上田時代の藩政組織は、支配体制として藩主・地頭・代官・同心などからなる一定の系列があったと推定される。地頭は、給人とも知行主ともいわれ、藩主から自分の領地と百姓をあたえられる有力家臣で、そのなかから家老職などの重臣が選ばれた。家老は藩主の身辺の配慮から寺社領の寄進、百姓への対策、知行地に関する指令、領内諸地域の監督などをおこない藩主を補佐した。家老には、矢沢但馬守(たじまのかみ)・小山田壱岐(いき)守・木村土佐守・出浦(いでうら)半平・大熊五郎左衛門・祢津(ねつ)半兵衛・海野内匠(うんのたくみ)などがいた。また、地頭のなかから、のちの郡奉行と職奉行とを兼ねる役職と考えられる職方に就任し、民政・警察をつかさどった。地頭には、真田家譜代の家臣のほか甲州武田家・駿河(するが)今川家・信州村上家などの牢人もふくまれていた。

 代官の職務は、年貢の徴収を主なものとし、百姓の還住策(げんじゅうさく)にもある程度たずさわった。同心には、鑓(やり)のもの・鉄砲のもの、またわずかながら弓のものがおり、地頭に配属され軍役(ぐんやく)に従事した。しかし、戦乱が遠のいて軍役は少しずつ少なくなり、平時は百姓とともに農耕につとめ、若干の土地と百姓とを経営支配する任務が主なものとなった。信之は、このような組織で藩政をすすめていたものと思われるが、松代入封から約一〇年後の寛永十年(一六三三)六月、まず足もとの城下松代を固めるため町奉行心得、また、同十四年十月、領内の行政一般を公平にすすめるため職奉行心得、さらに承応(じょうおう)三年(一六五四)八月、年貢徴収関係を扱う郡奉行心得を発布し、つぎつぎと領民支配の体制を整備していった。

 まず、信之が最初に手がけた寛永十年六月の「定」(『信史』26五七~五九頁)からみてゆこう。これよりさき信之は、元和二年七月、上田城下にたいし七ヵ条の禁制(きんぜい)を発布し、喧嘩口論、押し売り狼藉(ろうぜき)、博打双六(ばくちすごろく)、一人ものに宿を貸すことなどを禁止している。さらに藩の秤(はかり)や枡(ます)の統一や京銭の使用禁止なども打ちだしている(『信史』22三三三~三三四頁)。これをうけて、この寛永十年の「定」(町奉行心得)は、主につぎのことを規定している。①他国の商人が売掛金や買掛金で難渋したときは、町奉行が解決する。②修行者や請人(うけにん)のないものや他国のものには、いっさい宿を貸してはならない。③諸々(もろもろ)の借りものの請人になってはいけない。④町屋敷を明細にあらため、朱印のないものにたいしては、その役儀を申しつける。そのうえ、奉公人にたいしても諸々の役儀を町人同様に申しつける。⑤前々からもっている屋敷であっても住人がいない家は召しあげ、他人に付けわたす。⑥町奉行の指示のない家の売買はいっさいおこなってはいけない、などであった。松代城下町は、武田氏以来北信濃の政治の中心地として形成されていたと考えられるが、それだけに、信之はまず城下住人の統制を真っ先におこなう必要があったのであろう。

 ついで、寛永十四年十月には、師岡(もろおか)源兵衛・太田嘉右衛門・山寺正左衛門の三人の職奉行にあてて「法度(はっと)」(『信史』27一五二~一五三頁)をくだし、職奉行の職務規程をきめている。それは全一七ヵ条からなるが、その主な条文はつぎのとおりである。①自領や他領からの公事(くじ)(訴訟)や、逃散(ちょうさん)の村人などをもとの場所に呼びもどす人還(ひとかえ)しなどが生じた場合は、裁許は公平にまた厳重におこなうこと。②盗賊・悪党は油断なく穿鑿(せんさく)すること。公儀指名の召し捕らえものなどが生じた場合は、年寄(家老)と相談のうえ、家中の侍を派遣すること。③村々に盗賊などあやしいものがいた場合は、その村の名主・長百姓は訴えること。④諸論争がおきたときは、親類縁者・知人はいっぽうの肩をもってはいけない。争いがおきた場合は、訴訟の当事者以外はいっさいその場へ出向いてはいけない。⑤藩の直轄地である蔵入地において、田地の争いなどが生じた場合は、代官がその争いを裁決する。もし、代官が裁決できない場合は奉行所において裁決をおこなうこと。⑥地頭知行所に悪党がいたり、諸論争が生じた場合は、地頭や、足軽・同心の頭である物頭(ものがしら)にことわってすみやかに沙汰(さた)をおこなうこと。⑦当座の争いにより、あるいは酒に酔って人を殺した場合は死罪とする。⑧文書を偽造したり、謀反(むほん)を企てたりした場合は死罪などにする。⑨村々から奉公人を他所へいっさい出してはいけない。⑩男女の売買や男女の質入れはいけない。⑪悪党や商人など不審ものには宿を貸してはいけない。⑫隠田(おんでん)の所有は処罰する。⑬口留(くちどめ)番所を設置して往還するものを改める。⑭代官の非道は取り締まる、などであった。

 また、寛永十四年七月には、信之は郡奉行安中作左衛門にあてて七ヵ条の条文をくだし、その職掌を明らかにしているが、この条文は文面の内容からみて上野(こうずけ)国沼田領(群馬県沼田市)にあてたものと思われるので、承応(じょうおう)三年八月の郡奉行河野加兵衛あての九ヵ条(『新史叢』⑱一五二~一五三頁)でみよう。①年貢・課役の申しつけ。②隠田・新田の改め。③田畑・山境の争いの解決。④旱損(かんそん)・水損・山抜け・川欠け場所の検見(けみ)。⑤人馬をむやみに使うことは禁止。⑥家臣への切米・扶持米支給の再調査など。郡奉行の職掌は主として年貢・課役関係の条文が多かった。このようにして、真田氏松代藩の確立期である一七世紀前半には、松代藩政のかなめである町・職・郡の三奉行の職務内容を明確にし、藩政を展開していった。

 この時期は、ちょうど江戸幕府の三代将軍徳川家光の時代にもあたっており、幕府権力の基礎固めの時期でもあった。幕府は、寛永九年諸士法度をくだし旗本・御家人の統制にのりだす。同十二年には武家諸法度を改定して参勤交代の制度を細部にまでわたって定め、五〇〇石以上の大船建造を禁止するなど、諸大名の統制を強化した。また同年、寺社奉行の設置によって寺社の統制をおこない、また同年、評定所(ひょうじょうしょ)の制をきめ、寺社・勘定・町奉行それぞれの所管事項中、他の奉行に関係するものや重要事項で専決しがたいものを裁断することにした。さらに、同十六年には二年前におきた天草・島原の一揆を契機にしてポルトガル船の来航を禁止し、以後オランダ・中国・李氏朝鮮以外の国々との交渉を閉ざすこととなった。

 このように江戸幕府の基礎がための政策と並行しながら、松代藩政もまた郡・町・職の三職を中心として、その基盤を固めていったのであるが、藩では、この三職のうえにさらに、無役席・家老・城代・中老の重臣がいた。家老は、藩主のもと藩政全般を取りあつかい、その下に中老がいた。中老の職掌は、具体的なことは明らかでないが、家老のつぎに位置づけられる。無役席は、家老経験者などがなる顧問格の職制で、役職につかないことを原則とした。また、三職の専管にかかわる訴訟については各奉行が専決や内寄り合いによって裁決できたが、他の奉行とかかわる事項や重大な事項については、家老・中老・大目付・寺社奉行・郡奉行・町奉行・目付からなる評定所で解決した。松代藩の場合、大目付と目付の役割分担がかならずしもはっきりしないが、目付は藩士の非違摘発、松代城内の巡視や消防、藩主の供奉(ぐぶ)警固などで、重要な役割をもっていた。なお、松代藩の重臣である家老・中老などの人数は、時代により異なるが、おおむね家老五人、城代二人、郡奉行四人、町奉行二人、職奉行二人などであった。

 一九世紀に入ると、松代藩は八代藩主幸貫(ゆきつら)のもと文政七年(一八二四)「御仕置御規定」(『県史』⑦六一)を発布して、あらためて町・職・郡の三奉行などの各役職の行政分担を明確にせざるをえなかった。この時期、藩の行政量は膨大なものとなり、しかも複数の役職にまたがる事柄が生じてくるなかで、あらためて藩の各分掌の役割分担を明確にする必要に迫られたのである。たとえば、町奉行と職奉行と郡奉行の職務分担でみると、町奉行は松代城下のうち町人居住の町々に関することいっさいを扱う。これにたいし職奉行は、寺社・修験(しゅげん)や八幡宮領・善光寺領・飯縄神領など御支配三ヵ所と、松代町では御家中長屋と町外町(ちょうがいまち)を管轄する。さらに領内の人びとに関する公事出入りも扱う。郡奉行は年貢ならびに村方三役・頭立(かしらだち)の役儀にかかわる公事出入りを扱う、などである。また、「御仕置御規定」は、八代将軍吉宗のとき制定された「公事方御定書(くじかたおさだめがき)下巻(御定書百箇条)」の圧倒的な影響下に定められたものであるが、弘化四年(一八四七)まで数回改正や追加がおこなわれているところをみると、ただたんに幕府法の模倣として制定されたものではなく、じっさいに生きた法典として用いられたことがわかる(平松義郎『藩法雑考-信濃・松代藩「御仕置御規定」』)。いいかえれば、これは松代藩の支配体制の崩壊を食いとめるための法整備ともとれる政策であったと考えられる。

 さらに、天保十四年(一八四三)になると、八代藩主真田幸貫は、藩政改革の一環として職制改革もおこない、職奉行を廃止して郡奉行に吸収合併し(『県史』⑦七七)、また、寺社奉行を新設した。なお、郡奉行は年貢収納係と公事方係とに分かれ、それぞれ二人ずつが任命された。前者は年貢収納係であるから、領内の村々や百姓と直接折衝するため、その配下に代官・手代を配置した。

 このような過程をへて、表1のような慶応年間(一八六五~六八)の松代藩の職制表となってゆくのであるが、その組織は、家老の下には、藩主の側近関係と家老の御用部屋関係とを配置した。ついで、御留守居関係、大目付・目付関係、番頭・番士(八組編成)、徒士頭(かちがしら)・徒士関係、物頭関係、学校・学問所関係がある。つぎに三奉行として寺社奉行・郡奉行・町奉行があり、別に幕府領を預かる御預り所郡奉行が臨時に置かれていることがわかる。ついで、郡方・勘定所関係の諸係があり、さらに、御旗奉行以下の諸奉行などがあり、最後に江戸・京都留守居関係の役所が配置されていた。


表1 松代藩の職制表 (慶応年間)

 いずれにしろ、この職制表からわかることは、松代藩の藩組織は拡大の一途をたどり、まさに「大きな政府」の様相を示しはじめていたのである。