代官・手代の領民統治

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前記したように松代藩は、町奉行心得、職奉行心得についで承応(じょうおう)三年(一六五四)には、郡奉行法度『市誌』⑬二)を発布し、その職務内容を年貢・課役の申しつけ、隠田・新田改め、また田畑・山境争いの解決などとした。この郡奉行のもとで、年貢徴収などの実務を担当したのが代官と手代である。さらにその下には足軽・仲間(ちゅうげん)がいた。

 代官の職務内容を嘉永五年(一八五二)の「代官・手代に関する沿革」ともいうべき史料(『松代真田家文書』国立史料館蔵)でみよう。①田畑はもちろん、山林など総じて地所にかかわる争いの裁許。②年貢収納に関係することはもちろん、総じて役元勘定にかかわる出入りの裁決。③小作料滞りの措置。④名主・組頭・百姓代からなる村方三役と頭立(かしらだち)(四章三節二項「村役人と村の変化」参照)の役儀に関係する出入りの解決。⑤田畑の反別を丈量し石盛などを修正する地押し検地願いや難渋村方のお手入れ願いや囲い穀下げ願(かこいこくさげねが)いなどの取り扱い、と広範囲にわたるものであった。また、享和三年(一八〇三)の更級郡上布施村(川中島町)での「訴願等差出先役所留め」(『市誌』⑬三七)によると、代官所はつぎの諸点についても職奉行所や道橋奉行所や郡奉行所などとともに取り扱い機関となっていることがわかる。①郡役人足の差し引き御手当て願い。②欠け落ちものの訴願。③堰・道の付け替えや損傷の補修願い。④居宅焼失届け。⑤頭立の相続や名前替え。⑥田畑の山抜け、川欠け、水害や干害による不作の訴え。⑦何事によらず異変がおきたときの届け。

 いっぽう、代官のもとで手代は主として年貢籾・大豆、その他各種の御小役(おこやく)(雑税)や商・工・鉱業などの営業に従事するものに課される諸運上など、御収納関係の金銭の勘定諸払いを扱っていた。その他、村々の田畑所持者別に石高・反別を田畑ごとに書き上げ集計した高名寄帳や頭立帳や借財帳を取りあつかい、村々居宅焼失者の持高書き上げ帳改めにもたずさわった。ほかに幕府巡見使の通行、国役普請の施行、地押し改め、佐渡運上金の通行などのときの出役(しゅつやく)などがあった。

 このように、代官と手代の仕事は、直接領民と接触し、その利害と結びつくため、藩は代官・手代の動向に神経を使った。そこで、寛永十四年四月には、早くも代官心得を発布し、つぎのことを打ちだしている。村々でみだりに領民の人馬を使うことの禁止、百姓の四壁(しへき)(屋敷の周囲)において竹木を伐採することの禁止、百姓から賄賂(わいろ)をとることの禁止などであった(『松代真田家文書』国立史料館蔵)。

 享保十三年(一七二八)には、代官に誓詞七ヵ条(『依田家文書』同館蔵)を出させている。①年貢収納のときは、支配村々へ出かけ足軽ともども猥(みだ)りがましきことがないようにいたせ。②村々へ諸役を申しつけるときは、依怙贔屓(えこひいき)なくおこなえ。③村々から諸公事(訴訟)の訴えがあった場合は公平におこなえ。自分だけで判断できないときは、郡奉行所へその子細をうかがえ。④年貢金・小役金の徴収には精をいれ、御金奉行所まで上納せよ。⑤金銀銭籾を百姓から勝手に取りあげ、私用にいっさい使ってはいけない。もちろん、郡中の本田高・新田高・川欠け高・山抜け高などを改めるときは、親子・兄弟・親類・縁者たりとも依怙贔屓をしてはいけない、などであった。さらに、宝暦八年(一七五八)からの宝暦改革により、代官・手代をふくむ藩士や足軽への俸禄米を年貢上納米のなかから現地で渡す方式が改められ、村々は松代の御蔵屋敷に直接納入し、御蔵屋敷から給付する方式に変わった。また、足軽が回村してとりたてた金納年貢は、月割上納制により毎月の所定日に名主が松代へ持参、上納する方法に変わった。これにより、足軽が村々に難渋をもたらすことが軽減された。

 文化二年(一八〇五)二月に、代官成沢文治付きの手代は、高井郡大室村(松代町)の一百姓から賄賂(わいろ)の金子を預かりおいたということで、役儀と宛行(あてがい)を取りあげられ戸締めを仰せつけられている(災害史料⑧)。このような事例はほかにもあったと思われるので、代官以上に領民と接触する機会の多い手代にたいしても、藩はその取り締まりを強化していたものと考えられる。

 つぎに、代官・手代の年間行事暦を月ごとにみていこう(表2参照)。


表2 代官の年間行事暦 嘉永5年(1852)

 表2からわかるように、代官は正月十一日の仕事始めから、十二月の諸上納の皆済届けまで、けっこう多忙であった。手代の年中行事も、代官の直属の配下であったことからみて、代官のそれとほぼその内容を同じくしていたものと考えられる。

 代官・手代の定数の推移は、表3のとおりである。


表3 代官・手代の定数推移

 表3から、代官の定数は時代によりまちまちであることがわかるが、明暦元年(一六五五)は八人であった。寛延三年(一七五〇)には、この八人に六人が加わり一四人となり、宝暦元年には先に増加された六人が他の役職に転じたので、以前のようにまた八人となった。明和二年(一七六五)になると、右の八人のうち三人が役替えとなったので、跡役が埋まるまでは五人で代官を勤めることになった。文化十二年には、そのうちの一人が転役となったので、かれが受けもっていた村々は他の四人で分担することになった。しかし、文政八年(一八二五)には一人が補充されたので、またもとの五人となり、以後幕末までつづいたと考えられる。このように、代官の定数は四人から一四人まで増減した。いっぽう、手代は一二人から二〇人までのあいだを推移した。

 また、代官が所定の村々を支配する期間は、これも宝暦改革の結果と考えられるが、村々との癒着(ゆちゃく)を防ぐため五ヵ年と限定されていた。たとえば、享和二年正月段階で、「寛政九年から昨年までで支配村々の期間が五年となったので、これまで大島多吉支配村方が野村左兵衛に、これまで野村左兵衛支配村方が成沢文治に、これまで成沢文治支配村方が入(いり)藤九郎に、入藤九郎支配村方が吉村左兵衛に、これまで吉村左兵衛支配村方と河原新田(松代城下の新田)がともに大島多吉に」というように代官が交替している(災害史料⑦)。代官・手代は支配する村々を村方三役をとおして支配し、村々に公事が生じて、松代町の町宿(まちやど)(公事宿(くじやど))をとおして訴えでたときは藩当局に意見を上申した。

 代官・手代の知行高をみると、享保七年の段階で、代官には知行高五〇~一〇〇石取りの地頭七人と、五斗入り五〇~七〇俵余の籾切米取り二人と金切米五両と籾三人扶持の一人がいた(二項「家臣団の構成と地方知行」参照)。いっぽう、手代はいずれも切米五斗入り四〇俵であった(表4参照)。代官手当てとしては、代官役宅付きの経費として、上納節木代(ふしぎだい)(薪上納代)のうちから金二〇両ずつ支給されたが、この手当ては時代により変動があった。また、手代の手当ては節木代として一人金三分ずつ、ほかに夫給籾を一人につき五俵ずつ給付した。


表4 代官・手代と知行高 享保7年(1722)

 なお、知行取りの藩士から、知行地からの定率の年貢率三五パーセントをこえて徴収した分である越石(こしこく)籾を受けとり、藩の蔵へ納入することなどを職務とする越石代官の定数は二人であった。この越石代官一人につき手代が二人配属されたので、手代は四人となり、その手代に定付け足軽各一人が配置された。