松代藩の行政区画は、享保(きょうほう)六年(一七二一)までは上郷(かみごう)(南部平野地帯)、山中(さんちゅう)郷(善光寺平からみて西がわ一帯の山間部)、下郷(北部平野地帯)の三つに分けられていたが、同十五年からは里郷と山中とに二分され明治にいたる。里郷は善光寺平一帯をさし全領の七割、七万石を占める。山中は更級郡・水内郡の西部山間地一帯をさし、全領の三割、三万石を占めた。
また、全領地を九つの「通り」に分ける行政区画も、遅くとも元禄十年(一六九七)閏二月までにはおこなわれていた(元禄十年閏二月「松代藩堂宮改帳」)。それによると、九つの「通り」は、川南(三八ヵ村)、川東(二一ヵ村)、川中島(二八ヵ村)、川北(四七ヵ村)、有旅(うたび)(二〇ヵ村)、山中大岡(二一ヵ村)、山中新町(しんまち)(一四ヵ村)、茂菅(もすげ)(一五ヵ村)、吉窪(よしくぼ)(一八ヵ村)に区画される。また、表5は文政八年(一八二五)段階で、全領の村々を九つの「通り」別に表示したものである。河北(三六ヵ村)、川中島(二七ヵ村)、河東(三〇ヵ村)、河南(二九ヵ村)、田野口(一八ヵ村)、大岡(五二ヵ村)、有旅(三三ヵ村)、小市(九ヵ村)、北山中(一四ヵ村)に分けられている。元禄十年の場合と比較すると、「通り」の呼称が一部変更され、また、各「通り」に所属する村数にも変更があった。これら全領二四八ヵ村のうち市域に属する村々は一二二ヵ村で、全領の約四九パーセントを占める。市域の村々の松代全領に占める割合が約四九パーセントと意外に少ないのは、大岡一村三組を細分化した全村四六ヵ村がこの表に記載されているからで、大岡を一村と数えれば、市域村々は約六〇パーセントを占める。
この九通りは、幕末にいたると、上郷通り(または川南通り、四〇ヵ村)、川東通り(二六ヵ村)、川中島通り(二七ヵ村)、川北通り(四六ヵ村)、茂菅通り(一六ヵ村)、新町通り(一八ヵ村)、有旅通り(一九ヵ村)、吉窪通り(一九ヵ村)、大岡通り(二一ヵ村)と、ほぼ元禄十年の呼称にもどる。また、文政八年のものと比較すると、「通り」の一部の呼称変更と、九つの「通り」を構成する村々に多少の変動がみられる。
また、代官・手代の支配村々は、一郡のみに限定されることはなく、三郡から四郡にまたがり、ほぼ同数の村々が割りあてられていた。たとえば、表6の文政七年の場合、成沢文治は六一ヵ村、保崎庄助が五九ヵ村、宮下源助が五九ヵ村、師田(もろた)磯五郎が五七ヵ村というようにほぼ均等化されていた。
表6で代官の支配区域をみよう。成沢文治の場合、水内郡の小市通りから河北通りにかけて、すなわち犀川沿いの山間部から平坦(へいたん)部にかけて(七二会(なにあい)・安茂里(あもり)・大豆島(まめじま)・朝陽地区の一部)と更級郡の田野口通りである犀川沿いの山間部(信更(しんこう)地区の一部)から川中島通りの平坦部(更北(こうほく)と篠ノ井地区の一部)にかけてと比較的まとまっている。保崎庄助の場合、更級郡の最北端に位置する有旅通りの一部と北山中通り(七二会地区・水内郡中条村の一部と芋井(いもい)地区)、川中島通りの最北端(更北地区の一部)、および高井郡の中部から北部にかけての河東通りの一部(須坂市の一部・山ノ内町)、更級・埴科両郡南部の河南通り(更埴市から坂城町)と分散している。宮下源助の場合、河東通りの埴科郡から北に隣接する高井郡(松代から若穂地区、須坂市)および水内郡の河北通りの北部平坦地帯(三輪地区から浅川地区の一部)と松代領最西端の田野口・大岡・有旅の三通りの一部(信州新町から中条村と小川村の一部)に分散する。師田磯五郎の場合は、更級郡の西南山間部である大岡通りと中部平坦地の川中島通りの一部(大岡村・信州新町から信更地区と篠ノ井地区の一部)、および水内郡の平坦地である河北通りの一部(柳原・吉田地区から若槻地区の一部)、埴科郡の河南通りである松代町南部(松代地区の一部から更埴市・戸倉町の一部)に分散する。このようにみてくると、各代官の支配村々は地域的に分散していたといえる。