松代藩の家臣団は、知行取り家臣、蔵米取り家臣や足軽・仲間(ちゅうげん)などから構成されていた。知行取り家臣は、百姓つきの土地(地方(じかた))を藩主から給付される家臣をいい、知行主とも給人(きゅうにん)とも地頭(じとう)ともいわれる(ここでは地頭で表現)。地頭はがいして上・中級家臣で、原則として城下松代町の屋敷に常住して、家老をはじめ郡(こおり)奉行とか町奉行などの役職につき藩政に参加した。
地頭は元和(げんな)八年(一六二二)十月、真田信之が松代藩初代藩主として上田から松代へ移封(いほう)のさい引きつれてきた家臣団と、明暦二年(一六五六)十月、上州沼田(群馬県)から信之のあとをついで二代藩主となった信政が沼田から連れてきたいわゆる沼田衆(沼田侍)とが主体であって、地元松代での採用は少なかった。松代での採用は下級の蔵米取り家臣や足軽・仲間などが多かった。なお、藩の家臣が地方を藩主から給付される制度を地方(じかた)知行制というが、江戸時代をとおしてこの制度を実施していた藩は、仙台藩・米沢藩などごく少数であった。元禄初期(一七世紀末)の段階では、全国二四三藩のうち地方知行を実施している藩は四二で、全体の一七パーセントにあたった(知行高では四五パーセント)。信濃国では、松代藩のみがこれに属し、明治維新までつづいた。
いっぽう、蔵米取り家臣や足軽・仲間など(詳細は後述)は、藩から俸禄を蔵米で支給されるものである。表7からわかるように、地頭と蔵米取り家臣や足軽・仲間などの割合は、寛文(かんぶん)十二年(一六七二)段階で前者は二六七人、後者は一七四一人であるから、地頭は約二〇〇〇人の家臣団のうち約一三パーセントとなり、蔵米取り家臣などは約八七パーセントとなる。両者の割合は、江戸時代をとおして一五パーセント対八五パーセント前後であり、大きな変化はなかった。また、家臣団の総数は万治から寛文年間(一六五八~七三)はやや多めであるが、おおむね一九〇〇人前後であった。藩の直轄地は蔵入地(くらいりち)といわれるが、蔵入地と地頭知行所の割合は、松代藩の場合、拝領高(表高)一〇万石にたいする内高(実高)が一二万~一二万三〇〇〇石程度であるので、この内高が蔵入地約六〇パーセント(約七万三〇〇〇石)、地頭知行地約四〇パーセント(約四万九〇〇〇石)の比率で配分されていた。しかし、この割合は、松代藩の財政状況の悪化にともない、藩士の知行高を半分藩が借りいれる半知借上げ政策が恒常化していく寛保(かんぽう)元年(一七四一)以降は、約八〇パーセント対二〇パーセントと変化し、蔵入地が実質大幅に増加した(『更級埴科地方誌』③上)。