地頭の知行地での年貢徴収の実務をおこなうものは、蔵本(くらもと)(蔵元)である。蔵本は地頭の任命による。知行地内の所持高が多く、屋敷持ちのものが選任される傾向が強く、村内の上級百姓である村役人層や頭立層が多く選任された。しかし、江戸後期になると、小前層の台頭にともなって小前層まで選ばれた(青木孝寿「松代藩の蔵本」)。蔵本は、地頭任命の知行地のいわば私名主的なものであるが、知行地のある村でも、村全体の支配権限は村名主がもっていた。検地や宗門改め・五人組改め・人別改めや村入用の徴収、公事出入(訴訟)や村の治安維持など村の主な用件はすべて名主扱いとされた(鈴木寿『近世知行制の研究』)。名主は、郡奉行-代官-手代の藩の指揮系列下に置かれていたから、蔵本は名主のもとで知行地の貢租徴収などを扱うにすぎなかった。しかし、知行地内の村送り証文・宗門人別除帳願・頭立除帳願などは蔵本をとおしておこなわれた。また、地頭の権限としては、知行地の百姓に借入金・用立金・無尽金などを課すことがあり、知行地百姓とのあいだに軋轢(あつれき)が生じることがあった。その具体例を二、三紹介しよう。
①宝暦五年(一七五五)七月、七五石取りの地頭小林茂助は知行地、水内郡北堀村(朝陽)の百姓へ貸しつけておいた金子の返済をきびしく催促した。北堀村の困窮百姓はその返済方法を年賦でと訴えたが、地頭はこれを拒否した。そのうえ、地頭の私用をきびしく課してきたので百姓が難儀におちいり、藩目付へ訴えた。そこで藩がその一件を吟味したところ、地頭は理不尽(りふじん)のことを申し、そのうえ三割五分(三五パーセント)もの高利の金子を百姓へ貸しつけたので、百姓は困窮におちいっていた。これは「上をおそれず、我意にまかせる」やりかたで重々不届きであるとして、地頭小林茂助は役をとりあげられ、十月三日には隠居を命じられた(『北信郷土叢書』)。
②明和六年(一七六九)二月、更級郡真島(ましま)村(更北真島町)に一五〇石の給地をもつ地頭祢津(ねつ)式右衛門は、村の百姓から強訴(ごうそ)された。強訴は大法にそむく行為であるとして、訴人惣代が藩から牢舎(ろうしゃ)を命じられた。他の訴人にたいしては、仕置き(処罰)を申しつけるべきところであるが、菩提寺へ嘆願したので、このたびの大蓮院(たいれんいん)さま(真田信之夫人)の御年忌(ごねんき)(百五十年忌)につき格別のおぼしめしをもって、御咎(おとが)めはしない。祢津式右衛門は、訴えの取り計らい方が適切でないのでお叱(しか)りを申しつけるべきところであるが、これまた御情けをもって沙汰(さた)はしない。ただし、埴科郡倉科村(更埴市)・水内郡北長池村(朝陽)の知行地は所替えさせる、ということになった(『同前書』)。
③寛政三年(一七九一)七月、成沢縫殿右衛門(ぬいえもん)の知行地、下真島村の百姓は、地頭の施策が不正であるとして、五〇石の知行地を藩へ返上したいと願いでた。これにたいし、藩は成沢の知行地五〇石を召しあげた。いっぽう、藩へ直訴した知行地の百姓惣代二人は手鎖(てぐさり)のうえ村へ預けられ、知行地の惣百姓一九人も村預けにするとの裁断がくだった(『松代真田家文書』国立史料館蔵)。
このように地頭と知行地百姓とのあいだには、しばしば争いが生じ、知行地の召し上げや所替えがおこなわれることもあった。なお、地頭知行地の所替えは、これ以外の理由からもしばしば生じた。所替えの具体例を先に引用した小幡家の場合でみよう。寛永元年(一六二四)十月、前記のとおり小幡家はその知行地を東和田・梅木・軽井沢の三ヵ村で七〇〇石所持していたが、寛文元年(一六六一)では、三ヵ村のほかに、新しく水内郡北郷村(浅川)と同郡下高田村(古牧)とにおのおの五〇石加増された。安永三年(一七七四)二月、小幡内膳は東和田村五五八石八斗三升のうち、三一七石八升三合をつぎのように所替えされている。すなわち、一〇〇石を代官関山治平衛支配下の更級郡上平(うわだいら)村(坂城町)に、五〇石を代官〆木治郎右衛門支配下の北郷村に、また六七石八升三合を代官長谷川藤五郎支配下の更級郡原村(川中島町)に、さらに一〇〇石を代官篠崎望支配下の高井郡佐野村(山ノ内町)にであった(同前文書)。このように、知行地の村々が変更される場合がときどきあったが、これは山くずれや川欠けなどによる村の石高の変動を原因とする場合が多かったようである。