蔵米取り家臣や足軽・仲間(ちゅうげん)などの分限帳における記載方式は、①個人別の記載と②集団別記載との二方式に分かれる。
①個人別記載は、足軽・仲間より格が上の蔵米取り家臣に適用される。蔵米取り家臣は藩主にお目見えできる層である。具体例を寛文十二年(一六七二)八月の「真田幸道家中分限帳控」(『市誌』⑬九)にみよう。
一金八両 池田太左衛門
池田太左衛門は、年間に金八両藩から支給されていることがわかるが、このように「金八両」といった給金形態で支給される藩士を金切米取りという。
一籾五十表 代官 石井次兵衛
代官石井次兵衛は、年間に籾五〇俵を藩から支給されているが、「俵」表示の蔵米を支給される藩士を籾切米取りという。この場合、籾一俵は五斗である。
一籾五人扶持 外知行 長谷川奥右衛門
外知行長谷川奥右衛門は、年間に籾五人分の扶持を藩から支給される。一人扶持とは、一人一日玄米五合の割合で一年間分の玄米一石八斗を支給される方式をいう。それをこの長谷川のように籾表示で給される場合もあるが、ふつうは玄米表示であり、白米表示の場合もある。白米には上・中・下の三種類がある。このように、藩から扶持で支給される形態を扶持取りという。
以上のように、個人別記載方式には、金切米取り・籾切米取り・扶持取りの三種類があるが、これらを組みあわせた形態もある。たとえば、つぎのような場合である。
一金十両・籾四人扶持 寺西八郎右衛門
寺西八郎右衛門は、年に金一〇両支給され、そのうえ籾四人分の扶持をうける。これは、金切米取りと扶持取りとを組みあわせた形態である。
一金三分・米一人半扶持 長兵衛
これも、前者と同じ形態であるが、扶持取りが籾でなく米で支給される場合である。
②の集団別記載方式は、つぎのようになる。
一千百二十表 矢沢将監(しょうげん)同心
四十人分籾二人扶持
これは、矢沢将監に所属する同心(足軽)四〇人が集団的な形で籾一一二〇俵の蔵米、一人あたり二人扶持として二八俵ずつの給付をうける形態である。
以上みてきたように、蔵米取り家臣や足軽・仲間などの給付形態はまちまちであった。江戸時代をとおして、その数は全家臣のうち八五パーセント強を占め、江戸中期以降は一六五〇人前後であった。そのなかで、個人別記載様式の藩士は、足軽・仲間より格が上のお目見えができる直臣の蔵米取り家臣に適用され、集団記載様式のものには、足軽・口留(くちどめ)役人・仲間・検断・茶坊主・御女中などが入る。そのなかで、足軽は、享保七年(一七二二)で一三八五人おり、この年の全一六三〇人の約八五パーセントを占めた。
足軽は、同心組の足軽と定番組の足軽とに分かれる。同心組の足軽は、藩の家臣団のなかでも下層の、いわゆる雑兵(ぞうひょう)に所属する。主に百姓から採用されたが、一部は町人からも採用された。その役割の主なものは、藩の家老・奉行などの要職にある藩士の付け同心として同心組に編成され、軍事や藩政勤務に服することであった。また、給付形態は右の矢沢将監同心組のように集団記載方式であらわされた。
同心組の足軽の特徴は、在郷足軽制にある。すなわち、かれらは城下に近い周辺の村々に居住して、城下への通勤制をとっていることである。ただし、町人出身者もおり、これは城下町内に居住して勤仕した。在郷足軽制の起源は不明であるが、真田氏の松代入封の当初から置かれたものであろう。この制度を採用した理由として、足軽を領内から登用して、村落を統治しやすくしたことがまず考えられる。また、足軽はおおかた村々のなかで、一打(いちうち)といわれる本百姓層から選ばれており、村役人層もふくんでいることから、村方の有力層を懐柔(かいじゅう)することを目的としたものと考えられる。しかし、江戸時代も後半に入ると、百姓の階層分解にともなって従来からの有力な百姓層が没落してゆくなかで、小前層が台頭し、かれらのなかには、やがて足軽になろうとするものがあらわれた。そのため、足軽株が売買の対象となった(西沢武彦「松代藩足軽(同心)について」)。たとえば、埴科郡関屋村(松代町豊栄)の丑松(うしまつ)は、同村の久右衛門から三四両で足軽株を譲りうけている(『県史』⑦五四)。この例からわかるように、小前層のなかにも、三四両という大金を用意できるような富裕な百姓があらわれ、足軽株を購入することができたのである。
いっぽう、定番組の足軽は、藩の御城番の足軽同心であり、かれらも松代町内やその周辺の村々に居住して通勤服務し、居住する町や村の名をつけて組に編成された。たとえば、享保七年の定番組の足軽は一〇一人おり、藩士付きの同心として一〇組に編成されており、各組の足軽同心は一〇人前後であった。具体例をみよう(表9参照)。
一五斗入り 二二五俵・籾三〇人
但し一人につき一五俵・二人扶持つつ
小幡長右衛門同心 一五人
知行五〇〇石の小幡長右衛門つき同心の寺尾村の寺尾組は、一五人の足軽同心から構成される。この一五人によって集団的な形で蔵米の給付をうけており、その蔵米合計は五斗入り籾で二二五俵と籾三〇人扶持であり、一人あたりにすると、一五俵と二人扶持となる(『更級埴科地方誌』③上)。
口留番所は、寛永二年(一六二五)から領境の要所など二〇ヵ所に置かれた。その設置目的は、軍事・警察的な面と経済の取り締まりの面との二つがあった。その役人には、番所が置かれた村の百姓から任用された足軽が一人ずつ任命された。その給付は、恩田木工の財政再建策が実施されたあとの宝暦十三年(一七六三)、鼠宿番人が籾二〇俵と年間二〇〇人の人足使役のできる郡役一人、その他の口留番所役人はすべて籾一〇俵と郡役一人であった(七章三節三項「口留番所」参照)。
仲間(ちゅうげん)などは、総数二〇五人で足軽よりもさらに下級で、武士身分とはいえず百姓出身の奉公人的性格をもつ。したがってほんらいならば当然集団記載方式の給付形態をとるべきところを、個人別記載方式の給付形態をとり、享保七年の分限帳では、個人名をあげて記載されている。たとえば、
一五斗入り二十俵・中一人・玄一人 (前田)彦八
これは、前田という内苗字(うちみょうじ)をもつ御料理人彦八が、籾五斗入り二〇俵と中白米一人扶持と玄米一人扶持を給付されている場合である。このほか、この仲間には塗師(ぬし)・御具足方鍛冶(おぐそくかたかじ)・御鉄砲屋・御具足師・御畳刺(おたたみさし)など藩御用の職人などが多い。また、このなかには松代の町方取り締まり役である検断をはじめとして、時々鐘撞(かねつき)(松代町)・沓野山見(くつのやまみ)(山ノ内町)・町小走(こばしり)(松代町)・牧野島船頭(信州新町)・大原船頭(同)・御庭師(松代町)などが入る。これも個人別記載方式であらわされる。
奥坊主・御女中・寺社には、一七人の御殿に勤仕する坊主や二三人の御殿に奉仕する女中および二二の寺社などがふくまれる。奥坊主の一五人には一人あたり金二両三分・上白米一人扶持か金二両三分・下白米二人半扶持が給付され、他の二人の奥坊主には、金三分余が支給された(『更級埴科地方誌』③上)。