寛文六年の指出検地

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慶長七年(一六〇二)、北信濃四郡の領主森忠政は、領内で竿入(さおい)れの総検地(いわゆる右近(うこん)検地)を徳川検地の一環として実施した(一章二節一項「森忠政と北信濃」参照)。元和(げんな)八年(一六二二)十月、真田氏が松代へ入封以来、その検地帳をもとに年貢を徴収してきたが、松代藩全体にたいする総検地はおこなわず、「あなたこなた子細御座候処ばかり」を随時実施してきた(『県史』⑦二一)。しかし、実態とは違ってきたので、あらためて年貢徴収の基準となる指出(さしだし)検地帳の作成を三代幸道のときの寛文(かんぶん)五年(一六六五)九月、領内全村に命じた(『市誌』⑬七)。指出検地とは、藩の検地役人が田畑を実測するものではなく、領内村々の百姓にそれぞれが所持する田畑・屋敷地の石高を申告させ、同時に村役人が村高をまとめる方法である。この結果、翌六年二月、いわゆる寛文検地帳が領内いっせいに作成され、二二二ヵ村の検地帳が作成された。

 この寛文検地帳の形式は、百姓個人個人の検地帳とこれを合冊した形の村の検地帳とからなりたっていた。前者の記載例を、水内郡南俣(みなみまた)村(芹田)の弥左衛門(『松代真田家文書』国立史料館蔵)の場合でみよう。この弥左衛門個人の検地帳の表紙は、「南俣村弥左衛門田畑坪々石(こく)之帳」と記される。

 南俣村高辻之内

くぼた 一田四石五斗四升     御蔵納 弥左衛門印

よこまくり 一田七斗七升     同人

同所 一田一石五斗四升一合五夕  同人

  内

一石四斗三升七合五夕       御蔵

六升三合五夕           大日方善太夫様分

二升二合七夕五才         原民部様分

 一升七合七夕五才        湯本新左衛門様分

田方合六石八斗五升一合五夕

  内

 六石七斗四升七合五夕      御蔵納

 六升三合五夕          大日方善太夫様分

 二升二合七夕五才        原民部様分

 一升七合七夕五才        湯本新左衛門様分

 右の史料から、弥左衛門は三筆合わせて六石八斗五升一合五夕の田地を所持する本百姓であることがわかる。また、検地帳の記載形式は、一筆ごとに上から「くぼた」などの地字、田畑別、田畑の生産額をあらわす石高、田畑の所持者である名請人(なうけにん)が記載されるが、田畑の等級や面積の記載はない。このような形式で田畑・屋敷地が一筆ごとに記載され、最後に田畑の名請人の合計所持高が記される。また、その合計高の内訳、すなわち藩の直轄地である蔵入地分と地頭三人の知行地分の石高も明示される。このあとに、「弥左衛門の本田・新田・川欠け高を総百姓が寄りあい吟味いたし、田畑の坪々に応じて高を割りつけて、このように帳面を作成した」という文言(もんごん)をつけて、「南俣村弥左衛門田畑坪々石之帳」が完成する。個人別の検地帳は弥左衛門本人にもあたえられる。この個人別の検地帳は、「鑪(たたら)村十右衛門田畑石高帳」(芋井 鑪共有)とか、「小柴見村次郎右衛門田畑坪々石高帳」(安茂里 宮島賢治蔵)などの表題がつけられていた。

 いっぽう、南俣村の惣(そう)高改帳は、この個人別水帳を合冊した形の名寄せ形式で、同じ寛文六年二月に作成された。その表紙は、「南俣村惣高改帳」と記され、その田畑の本田残高は三一六石となる。三一六石の内訳は、四人の地頭、北沢三右衛門七五石、大日方善太夫六八石、原民部五三石、湯本新左衛門六〇石の各知行地と六〇石の蔵入地である。そのあとに、「南俣村の本田・古新田・川欠け高を総百姓が寄りあい、明細を吟味いたし、田畑の坪々に応じて高を割りつけこのように決めた」という文言があって、検地が村の責任で作成されたことが明記されている。藩役人はこれを点検して間違いなしと認めると奥書(おくがき)を記し、この水帳にもとづいて年貢・諸役を納付するよう命じる。このような手続きをへて、南俣村の寛文検地は、名寄せ形式の指出検地という形でおこなわれた。検地は、他の諸村でもまったく同じ手続きでおこなわれた。


写真6 寛文6年(1666)2月の南俣村惣高改帳
(国立史料館蔵)

 この寛文検地帳の作成により、松代藩は藩の直轄地である蔵入地と地頭知行地とを峻別(しゅんべつ)することができ、また、領内村々の石高と年貢納入者である本百姓とを把握することも可能となり、その藩政の基盤を確立することができたといえよう。百姓がわからみれば、この寛文検地帳に登載されたことにより本百姓身分と認められたことになる。この本百姓は、一打(いちうち)百姓とも頭判(かしらばん)百姓ともいわれ、貢租や役儀を負担し、公の文書に名を記し印判をおすことができた。いっぽう、検地帳に載せられなかった多数の百姓は判下とよばれ、一打百姓のもとで別家(べっけ)・合地(あいじ)・帳下(ちょうした)・加来(からい)・門屋(かどや)・地下(じげ)などの従属的な地位に固定されることになった(四章四節一項「松代領の判頭と判下」参照)。

 なお、この寛文検地は、真田松代藩になってから最初にして最後の総検地であり、以後松代藩の土地の基本台帳として生きつづけた。