宝暦・明和・安永期以降の検地

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寛文六年(一六六六)以降の検地では、総検地は実施されず、事情のある場合にかぎり該当する村を対象として、地押し検地がおこなわれた。田畑の位付(くらいづ)け・石盛(こくもり)・免(年貢率)などは従来のままとするのが原則であるが、これを付けなおすことも少なくない。検地の手続きは、村中の百姓と入作者の同意を得てその総連判願書によって藩に嘆願し、郡奉行から家老まで伺いが上がって裁可のうえで掛り役人へ条目をくだして実施される。

 表10からわかるように寛文六年以降の検地では、圧倒的に宝暦・明和・安永期に検地が集中している。これは、寛保二年(一七四二)の大満水、宝暦七年(一七五七)の大洪水、明和二年(一七六五)の洪水による水害の後処理のためと考えられる。寛保(かんぽう)二年は干支(えと)で戌年(いぬどし)にあたるので、この年の出水は戌の満水とよばれるが、「その被害は領内一八八ヵ村にわたり、水難の家二九一四軒、内(うち)流失の家屋一七五五軒、潰れた家八五七軒、半潰れ三〇二軒、流死人一二二〇人(中略)、外に流死馬六四匹であった。道路の抜け落ちは延べ三万一六四一間(けん)(中略)、山抜けは九八八ヵ所、流木九二一八本で、本・新田をあわせて六万一六二四石余」(『新史叢』⑲解題二頁)の大きな被害が生じ、幕府から一万両を拝借している。また、宝暦七年八月の大洪水は、関東・甲信方面に大きな被害をもたらした雨台風によるものといわれ、松代領を直撃した。松代藩の内高一一万六四〇三石余のうち以前からの永荒高三万四三五一石余のうえに、新たに五万一二四五石余の損耗高が生じた。被害の大きい諸藩は幕府に願いでて拝借金を貸与されているが、松代藩も一万両拝借している。このときの大きな被害が松代藩の宝暦改革の直接原因になったといわれる。明和二年の洪水でも、一九二ヵ村、五万三八六五石余の損耗田畑が生じ、このときも幕府から一万両を拝借している。このような大洪水で、田畑は原形を失うほど荒れ地化したり川欠けで流失してしまう。被害村々ではその再開発が一段落した段階で、百姓銘々の所持地・所持高、村全体の反別・石高をはっきりさせるため検地を藩に願いでる。


表10 松代藩の本田検地実施状況
(延数)(天保14年調査)

 犀川右岸に接する更級郡綱島村(更北青木島町)でも、戌の満水後の再開発がほぼ限界に達した一三年後の宝暦五年十二月に検地を申請した(綱島共有)。このときの検地役人四人による検地で、綱島村は本田分九四一石三斗七升のうち約八八パーセントにあたる八二八石二斗一合が川欠け分となり、残高はわずかに一一三石三斗四升九合であった。また、新田分一七〇石もすべて川欠けとなり、新たに本田・新田川欠け跡の砂溜(すなだ)まりの場所三〇石を登録し、綱島村は実高一四三石三斗四升九合となった。検地の基準は一間が六尺五寸の二間竿をもって計り、一反三〇〇歩として計算し、一筆の田・畑・屋敷ごとに地字・名請人・石高を明記した。田は上田・中田・下田・下々田・異名(いみょう)田の五等級とし、畑も同様であった。


写真7 宝暦5年(1755)12月 綱島村検地帳
(綱島共有)

 この期のこの種のものと思われる地押し検地帳には、宝暦十三年七月の水内郡「石綿(渡)村未(ひつじ)検地本田水帳」(石渡共有)や明和元年八月の「小島村申(さる)地改本田水帳」(小島共有)などがあるが、村により田畑の位付(くらいづ)けに若干相違があった。綱島村での位付けは、田畑とも上・中・下・下々・異名であり、石渡(いしわた)村(朝陽)では、田は上・中・下の三区分であり、畑は上・中・下・下々・異名・見取(みとり)の六区分である。また、小島村(柳原)では、田は上・中・下・下々の四区分であり、畑は上・用水堰敷・中・下・下々の五区分であった。村によって田畑の位付けには微妙な違いがあることがわかる。また、石盛は標準石盛方式で、上田は一反歩につき石盛一石五斗代、以下田地は二斗下がりであり、屋敷地は石盛一石二斗代とし、上畑と同じとした。畑地も二斗下がりで石盛したが、見取畑は村により石盛に違いがあった。検地役人が村々の田畑の実情を正確にとらえようとしていることがうかがえる。

 宝暦ごろの地押し検地願書は、戌の満水の被害などを具体的に訴えているが、しだいに検地願書の記載様式は統一されるようになる。天明二年(一七八二)二月の水内郡﨤目(そりめ)村(吉田)の検地願書は、「潰れ地を村中の百姓に割りあてたり、村民が内証で田畑を譲渡したり、兄弟で田畑を分けあったりして長い年月がたち、田畑の所持者がだれか分からなくなってきたため」として願いでた(県立歴史館蔵)。また、天保二年(一八三一)二月更級郡有旅(うたび)村(篠ノ井)の地押し願も、「寛文年間の検地以来長い年月がたち、田畑を譲渡したり、別家に高分けしたり、年々切り開き切り添えしてきたため、田畑の所持者が分からなくなった」(有旅共有)としている。つまり寛文指出検地から長年月をへて生じた混乱を理由とする。地押し願書はさらに、①村の百姓も入作人も熟談のうえの嘆願であること、②検地の結果石高増、年貢増になっても決して難渋願いはしないこと、をかならず記す。

 一九世紀に入ってからも、千曲川・犀川と支流諸河川の洪水はひんぱんにおきた。文化四年(一八〇七)六月の水災は大きかった。松代では城下を流れる神田川・関屋川・藤沢川の増水による堤防決壊が生じた。千曲川は大洪水となった。また、犀川の増水による更級郡四ッ屋村(川中島町)あたりでの堤防決壊のため、同郡大塚村(更北青木島町)・小島田(おしまだ)村(更北小島田町)・下氷鉋(しもひがの)村(更北稲里町)あたりまで一面の湖となった。文政十一年(一八二八)六月晦日(みそか)から翌日にかけての大暴風雨でも、領内各所の山抜けや千曲川の氾濫(はんらん)による堤防決壊の被害が大きかった。弘化四年(一八四七)三月の善光寺大地震による地すべり土砂災害と犀川せき止め湖の決壊による大洪水では、本新田七万一六四五石余の損耗が生じた。また、安政六年(一八五九)の千曲川・犀川と支流諸河川の氾濫は、戌の満水以来の大洪水といわれ、領内の被害は甚大であった(『松代町史』下)。このように千曲川などの諸河川の洪水による被害は、丹精こめた田畑の流出につながり、その回復に多くの労力と費用を要し、回復不可能の川欠け地も生じた。その過程で、領内村々は藩に地押し検地を嘆願していった。