延宝二年(一六七四)の秋におきたと考えられる二斗八(にとはち)騒動については、確かな史料がない。伝承史料として残されているなかで、もっとも古いと思われるものに、文化三年(一八〇六)から文政十一年(一八二八)までの村内外の出来事を記録した南長池村(古牧)の「永々代記録」(『市誌』⑬一九〇)の、二斗八騒動にふれたつぎのような記事がある。
延宝二年、一〇万石の百姓が訴訟をしたので、堀村伝兵衛、西尾張部村吉兵衛、下高田村助弥(すけや)の三人が仕置きになった。村上勘助様・河野与左衛門様から万事御役儀を勤めるべき品々を箇条書きで仰せつけられた。それ以後は、御条目のとおりに勤めている。
右の短い記述から、「訴訟」は延宝二年になされ、その発頭人が水内郡南堀村(朝陽)の伝兵衛、同郡西尾張部村(古牧)の吉兵衛、同郡下高田村(古牧)の助弥であり、「訴訟」の後始末として百姓の勤めるべき役儀が村上勘助と河野与左衛門両人の名で仰せつけられたことがわかる。当時、一二〇石取りの地頭村上勘助と一〇〇石取りの地頭河野与左衛門はともに松代藩郡奉行の要職にあった。両人の名で出された延宝二年十一月十一日と十九日の二つの定書がこの記事のいう仰せつけ箇条書きと思われ、「訴訟」への回答であったと考えられる。
前者は、一五ヵ条からなる地頭知行地への基本方針であり、後者は一七ヵ条からなる地頭知行地をふくむ全領に出されたものと考えられている。前者の「覚」(『県史』⑦二一八)をみていこう。
①松代藩では本年貢は籾(もみ)納めを原則とするが、その一部を米で納入する場合は、寛文京枡(きょうます)で籾一俵につき玄米二斗八升ずつ納入すること。ただし、搗(つ)き米で納入することはいっさい無用である。また、「山中」の百姓は米納はない。②「山中」も「里郷」の百姓も、役大豆は高一〇〇石につき大豆六俵ずつ納めること。③役綿は高一〇〇石につき真綿四〇匁(もんめ)ずつ納めること。ただし、真綿一〇〇匁につき年貢籾から八斗を差し次ぐ(控除する)。④役荏(え)は高一〇〇石につき荏三斗ずつ納めること。ただし、荏一斗につき年貢籾一斗五升を控除する。以上の②~④は本年貢籾の一部を大豆など現物で納入する場合の規定で、役大豆・役綿・役荏の三種を松代藩では三品御小役(さんぴんおこやく)とよんでいた。
⑤ごまは高一〇〇石につき五升ずつ納めること。ただし、ごまの二倍の年貢籾を控除する。⑥小麦・小豆(あずき)・大角豆(ささげ)はそれぞれ一斗につき年貢籾一斗五升ずつを控除する。⑦大麦・蕎麦(そば)はそれぞれ一斗につき年貢籾一斗を控除する。搗き麦や蕎麦の挽きぬきはいっさい無用である。⑧藁筵(わらむしろ)は一枚につき年貢籾一升ずつを控除する。かますも同様である。⑨入木(薪)は高一〇〇石につき一ヵ月に二駄(一駄=六束)ずつ納めること。ただし、一束は三尺縄とする。木の種類は問わず、ありあわせの木でよい。⑩入藁は高一〇〇石につき一ヵ月に三駄(一駄=六束)ずつ納めること。ただし、一束は六尺縄とする。地頭がもとめる分は藁で納めよ。残り分は一駄につき銀六分の割合で納めよ。「山中」の村々は全部代銀で納めること。⑪刈干(干草)は高一〇〇石につき二〇駄(一駄=六束)ずつを納めること。ただし、一束は六尺縄とする。
⑫夫銀は高一〇〇石につき銀二八匁ずつ納めよ。藩主が参府・帰城のとき高崎(群馬県高崎市)まで人足を出すかわりに納める高崎銀は、高一〇〇石につき銀一二匁、往復分なら銀二四匁を納めること。これ以外の江戸往来のときは、人馬をいっさい出してはならない。⑬人馬使いは一年間に高一〇〇石につき人足二〇人と馬一〇匹(ぴき)の割合で出すこと。ただし、地頭が家作するときは別に出すこと。もちろん、地頭が人馬を使うときは、その扶持を地頭が渡す。⑭垣そだは高一〇〇石につき年間三駄ずつ納めよ。ただし、一駄に四束付け、一束は三尺縄とする。このほか、杭木・塀木はいっさい出してはならない。⑮門松・松足はともにいっさい出してはならない。
この十一月十一日のものと、同月十九日の全領に出されたと思われる「覚」(『県史』⑦二一一)とを比較すると、両者のあいだに適用対象の違いによる条項と文言(もんごん)の違いはあるが、きわめて共通性が高く、二つの「覚」が一体となって延宝二年の「訴訟」への回答としたものと考えられる。なお、地頭知行地に関する「覚」が先に出されたのは、「訴訟」の主要対象が地頭知行地に向けられていたことによろう。このようにみてくると、二つの定書から逆に二斗八騒動の百姓がわの要求が推定できよう。
二つの定書は、ともに第一条で年貢籾俵(五斗)は玄米で二斗八升納入することを明記しているが、伝承では籾一俵を玄米三斗に引きあげようとする藩の政策への百姓がわの抵抗であるとし、ここに二斗八騒動の名が由来するとしている。また、第一条で地頭知行地での搗き米上納が禁止されたこと、さらに、松代藩の行政区画である「山中」での米納の義務はないとすることが確認されていることは、米納を要求する地頭への百姓がわの反発に答えたものと考えられる。「山中」は畑作が中心であり、また松代城下への運搬距離を考えると年貢の現物納は苛酷(かこく)であったから江戸初期以来金納であった。
百姓がわの要求項目は、この年貢軽減を第一としたが、役儀の軽減も大きな目標であった。「覚」の第二条以下はすべて役儀に関するものである。役儀とは、家別または人別に賦課される家役・軒役などであるが、この延宝ごろには大家族から単婚小家族に変化してきているので、役儀の百姓負担はきびしく、二斗八騒動でその軽減を訴えたものと思われる。これにたいし、藩がわでは役儀の賦課については、石高制を基準とする政策に転換をはかった。その役儀軽減項目には、①役綿のように、村高一〇〇石あたりの賦課数量が限定され、さらにその分の本年貢の差し次ぎ高(控除高)が明示されたもの。②山・里役大豆などのように村高一〇〇石あたりの賦課数量が限定され、本年貢高への差し次ぎ高の規定がないもの。③小麦・小豆など役儀数量の限定はないが、本年貢への差し次ぎ高が明示されたもの。④高崎銀のように「御入用次第」などと記し役儀数量・差し次ぎ高規定のないものの四種類があった。この④は考えようによっては危険な項目ではあるが、藩が直接賦課するものであり、地頭の恣意(しい)を防ぐことができたものと思われる(古川貞雄「信州における寛文・延宝期の農民闘争と役儀政策」)。
このように、延宝二年秋におきたと思われる二斗八騒動は、松代藩の租税政策に大きな転換をもたらしたものであり、以後松代藩はこの二つの「覚」にもとづいて年貢徴収をおこなったと考えられる。
なお、二斗八騒動の伝承について、信濃毎日新聞記者堀江構想は大正十四年(一九二五)十一月、小冊子『義民助弥』をあらわし助弥らを顕彰している。また、南高田の伊勢社境内にある天神社は、天神様(菅原道真)のほかに二斗八様をも祭ったものであるとの伝承がある。大正十四年十一月、南高田の住人は村人全体で助弥後援会を組織し、あらたに毘沙門(びしゃもん)堂境内に「義民助弥之祠(ほこら)」を建立した(写真9)。屋敷跡といわれるところには、昭和十二年(一九三七)「義民助弥誕生之地」の石碑が建てられた。また、そのころ助弥の歌がつくられ盆踊りに歌われた。同十六年ころまで助弥コンニャクと称して長野市近郊の村々を行商した人がいたという(『市誌』⑧旧市町村史編)。
このように、義民助弥の伝承はいまも脈々と語りつがれているのである。