蔵入地の貢租

143 ~ 156

松代藩の実高(内高)一二万石余は、藩の直轄地である蔵入地と地頭(知行主)にあたえられる知行地とに分かれる。その割合は、正徳(しょうとく)五年(一七一五)から元文(げんぶん)五年(一七四〇)にかけては、蔵入地が六、知行地が四であった。しかし、藩財政の窮乏化にともなって実施された半知借上(はんちかりあげ)制が恒常化する寛保(かんぽう)元年(一七四一)以降では、両者の割合は約八対二となっていく。なお、半知借上制とは、家臣の知行の半分を臨時に借りあげることをいうが、藩財政の窮乏化にともない江戸時代中期以降諸藩で一般化した。はじめは、一ヵ年ないし数ヵ年という暫定的な立法であり、借上率も低く期限には返すべきものであったが、藩の財政難がつづくとしだいに恒常化した。松代藩の場合、その例がはじめてみられたのは、享保(きょうほう)十四年(一七二九)から(『市誌』⑬二〇)で、当初は半知借上証文が作られ、返済が約束されていたが、他藩同様恒常化していった。家臣の拝領高の借上率は、藩士知行五〇石以上は半分、それ以下は若干逓減(ていげん)されている。半知の期間は、軍役も半分でよいとされていた。

 さて、蔵入地の貢租についてみよう。蔵入地の年貢徴収は、先にみた延宝二年(一六七四)十一月十九日に全領に出された「覚」にもとづいておこなわれたと考えられる。蔵入地の貢租は、本年貢(本途物成(ほんどものなり))と小役(小物成)とにわかれる。本年貢は、検地の対象となる田畑や屋敷地に課される租税で、江戸時代をとおして藩財政の有力な財源となった。小役は田畑以外に課される雑税で、漆運上銀・川網役・紙漉(かみすき)役・麻運上などがあった。本年貢と小役の課税基準は、田畑などの生産高である石高であり、また、課税方法は、村役人をとおして年貢や諸役を一村の総本百姓の連帯責任で納めさせる村請(むらうけ)制であった。つまり、村役人である肝煎(きもいり)(名主)は、藩から村高に応じて課される村の年貢納入高を本百姓の持ち高を基準として各人に割りあて、それを集めて上納した。したがって、年貢未進者が一人でも生じれば、村の連帯責任としてこれを完納するのが原則であった。

 そこで、藩は毎年村にたいして年貢割付をおこなうが、この年貢割付状を松代藩では「土目録(どもくろく)」とか「免相(めんあい)目録」と称し、年貢皆済状(かいさいじょう)を「覚」とか「御年貢皆済目録」といった。年貢割付状とその皆済目録の具体例を更級郡四ッ屋村(川中島町)の「巳(み)之御年貢土目録」の場合でみよう。この史料は、まず享保十巳(み)年の土目録を掲げ、つぎにこれにたいする皆済目録を同十三年付けで記載するという、割付状と皆済目録とが同時記載される便利な史料(『更級埴科地方誌』③上)である。

   巳の御年貢土目録      四ッ屋村

一高五百七石一斗六升三合五勺    本田

  内

百九十三石七斗八升九勺       跡々川欠(かわかけ)

 十六石二斗三升七合六勺      亥(い)御入下(いりさげ)

 三斗               御蔵やしき

 五ッ 残二百九十六石八斗四升二合…………………………①

  取米百四十八石四斗二升一合

三ッ 一高四十四石一斗二升六合五勺 定免同所起返(おきかえり)本田…②

  取米十三石二斗四升一合

一高三十三石六斗四升二合      同所新田…………③

   内

 三十三石一斗二升一合五勺     跡々川欠

 二ッ一分 残五斗二升五勺

  取米一斗九合三勺

一高十八石七斗五合         同所寅(とら)新田………③

   内

 九石九斗二升           跡々川欠

 一ッ四分 残八石七斗八升五合

  取米一石二斗二升九合九勺

一高六石三斗四升五合        同所申(さる)新田………③

   内

  一石六斗二升一合一勺      跡々川欠

 二ッ一分 残四石七斗一升三合九勺

  取米九斗八升九合九勺

 取米合百六十三石九斗九升一合一勺……………④

本口合六百七十五俵三斗二升一合七勺……………⑤

   この納(おさめ)次第

 一二俵四斗八升一勺        下綿百八十五匁二厘

 一四俵二斗二升四合三勺      荏(え)一石四斗八升二合九勺

 一二十九俵三斗二升七合      役大豆

 一六百三十八俵二斗九升三勺    籾納

    合

  この払方(はらいかた) …………………………………⑥

 一二俵四斗八升一勺        下綿代籾

 一四俵二斗二升四合三勺      役荏代籾

 一大麦二俵            御蔵番伝兵衛

 一同 二俵         聖口(ひじりぐち)番 権兵衛

  (中略)

 一七俵 御賄代籾中御所へ

 一七十四俵五升九勺 御賄代籾

    内わけ

  五升六合六勺 粟(あわ)上田四升

  (中略)

  小以(こい)

 払合六百七十八俵一斗三升三勺

 差引二俵三斗八合六勺過に成、

 代金二分二朱 御相場五十二俵

一金二両二分九匁四分

  役大豆残り二十三俵四斗九升七合

    相場合 三十三俵値段

一金二両一分十三匁二分 荏代 一升に付き一匁づつ

  二口代金〆(しめ)五両七匁六分

   内

  金二分二朱 籾払過に引、

  残金四両二分七匁四分

    上納

 一金一両        午の四月二日

 [    ](虫損)   同九月六日

 [    ](虫損)   同十二月二十八日

 [    ](虫損)   申の四月九日

右の通り巳の御年貢諸色(しょしき)払方次ぎ立て、小切手引合い皆済せしむる者也、

  享保十三年申の四月九日  森彦助

                 四ッ屋村 肝煎

                      組頭

 右の史料から、四ッ屋村には五ッ免の本田残高が二九六石余(①)、三ッ免の起返り本田高が四四石余(②)と三つの新田(③)があり、これにたいする取米合計額すなわち年貢納入量が一六三石余(④)であることがわかる。これを籾に換算し口籾(くちもみ)を加えると六七五俵余(⑤)となる。このように決定された年貢納入量は、ふつうその年の十月以降に郡奉行所属の代官から名主に示される。名主は検地帳に登録されている百姓の土地所持高に応じて年貢の割り当てをおこない、本百姓が年貢を村の蔵に納入すると、そのつど名主から領収の小切手が渡される。つぎに名主は、集めた村の年貢籾を藩役所へ上納する。そのつど、藩は領収の小切手を名主に渡す。完納すると小切手と引き換えに年貢の皆済目録を交付した。

 この史料では、その皆済目録にあたるのが「この払方」(⑥)で、本・口籾六七五俵余(⑤)が村の蔵に納入されたあとどのように払いだされたかの内訳を記していく。役綿・役荏にたいする年貢籾控除分、御賄代籾などのほかに、全年貢量の三分の二ほどが代官・同心・御蔵番・口留番所番人などの藩役人への蔵米や扶持米にあてられている。支払い方法は、一部の金納分を除いて現地決済渡しの籾払いであった。このように、「里郷」村々では享保年間(一七一六~三六)ころから一部に年貢の金納化がみられたが籾納めを原則とした。いっぽう、「山中」村々では米作が少なく、そのうえ松代までの籾の運搬は重い負担となり、換金作物の麻・楮(こうぞ)などを主体とする農作物であることなどから江戸時代初期から金納であった。

 この史料にみられる免とは年貢率のことで、五ッ免とは年貢率五割をさす。松代藩では、免は検地のとき田畑地種別に決定し固定されている。田畑の不作、川欠けなどによる引き高の決定は、毎年の藩役人の検見(けみ)による。検見は災害などのとき内見・小検見(こけみ)がなされ、秋の大検見で決定される。内見は、村役人と小前百姓が村内の一筆ごとの立毛(たちげ)(作柄)を見分して内見帳と耕地地図を作成することである。そのうえで代官・手代が、村方が作成した帳簿を参考にして実態調査の小検見をおこない、村内全体の引き高を推定する。これらの基礎資料を手にして秋の収穫期に大検見がおこなわれる。郡奉行の差配のもとに勘定所役人・代官らが回村して坪刈をおこない、小検見の結果と対照させて、その年の年貢引き高を決定する。

 さて、「里郷」村々においても金納が本格化しはじめたのは、寛保元年(一七四一)六月の年貢月割先納仕法以来である。この仕法は、五代藩主真田信安のもと、当時藩財政の再建にあたっていた勝手方家老原八郎五郎らによって出されたものである。この仕法は、はじめ数年間の時限立法であったが、しだいに恒常化していったものと思われる。月割仕法触れの概要をみよう。

領内では、近年年貢の未進が激増しており、期日までに皆済されないため、また、藩士への扶持や切米籾を村方渡しとしたため、催促人(足軽)がたびたび村へおおぜい出向くので、各村では、過分の費用がかかるとのことである。そこで、古い未進年貢はもちろんのこと、去る申年(元文五年、一七四〇)までの未進年貢などは、しばらくのあいだ免除する。そのかわりに年貢の月々先納を申しつける。その具体的な仕法は、蔵入地と半知借上分の貢租は、納籾一俵(五斗三升入)につき銀一八匁の割合をもって一二ヵ月に分割し先納させる。そのさい、早い月の先納分については順次割引をおこなう(『更級埴科地方誌』③上)。

というものであった。この触れが出た背景には、たび重なる未進年貢への対策があった。たとえば、水内郡﨤目(そりめ)村(三輪)では、寛保元年四月現在で、享保十八丑(うし)年(一七三三)以来、寅(とら)年(享保十九年)・卯年(同二十年)・巳年(元文二年)・未年(同四年)の五ヵ年にわたる金四両銀一一匁九分六厘の未進額を計上している(写真10)。また、同村では同三年六月、前年巳年の未納分五俵(うち二俵は籾納め)とその延滞利息分三分の金納を当年中におこなうことを約束している。このような累積しがちな年貢未納の具体例は、﨤目村のみのことではなく、領内諸村でも広くみられた。藩としては、未進年貢の取り立てを棚上げにしてでも、確実に年貢を確保できる月割上納の実現をはかったのである。


写真10 寛保元年(1741)﨤目村未進証文
県立歴史館提供

 このように、享保から寛保年間(一七一六~四四)にかけて、里郷村々においても年貢の一部金納化がみられるが、これは当時貨幣経済が村々にしだいに浸透してきたことを利用する政策でもあった。松代藩では領域内外において年貢籾の換金市場が少なかったためもあって、藩も積極的に年貢の金納化を推しすすめていったものと思われる。

 このように、年貢金納の月割上納化がおこなわれていたが、寛延三年(一七五〇)原八郎五郎の失脚とともに、一時月割上納制はとだえた。このあと、江戸で財務専門家と称する浪人田村半右衛門が三〇〇石で藩に抱えられ、五代藩主信安から御勝手役に任命された。田村の改革は、①藩士や商人に御用金を課し、②村々にたいしても大検見・小検見・宗門改めなどを免除するかわりに一〇〇石につき一割五分増しの年貢上納を強要し、③山中村々の年貢は江戸初期から金納であったものをこの春から現物納にする、などの内容であった。けっきょく、田村の改革は、翌寛延四年(宝暦元年、一七五一)八月の山中七二ヵ村のいわゆる田村騒動によって挫折した(『市誌』④一三章「支配の動揺と町・村」参照)。

 月割上納が名実ともに制度化したのは、六代藩主真田幸弘のもと、宝暦八年二月からの勝手方家老恩田木工(もく)と勘定吟味役(のち郡奉行)祢津要左衛門・成沢勘左衛門らによる宝暦改革によってである。この改革の直接原因は、宝暦七年の千曲川の大水害であるが、これ以前に寛保二年の大満水や宝暦元年の震災があり、松代藩は財政窮迫に苦しんでいた。宝暦改革の全体像は一三章「支配の動揺と町・村」にゆずるが、税制改革を中心とした概要はつぎのとおりである。

①近年、領内村々がたびたび干損・水損をこうむって収穫が満足に行き届かず困窮におよんでいる。また、去年までは年貢上納金の取り立てや年貢籾の納入遅滞分の催促に数百人もの足軽が出向き、その出費などで村々の難渋がつづいている。そこで年貢納入については、現物籾は必要な分にかぎって他は金納とし、これを月割金納方式で納入すること。

②従来村から渡していた家中の切米・扶持籾分は、すべて直接藩の蔵屋敷へ納入すること(分配渡しは蔵屋敷でおこなう)。大麦についても同様である。

③藩主の江戸・在所御飯米の納め方は、入念な二重俵のこしらえなどで百姓が難儀をしているので、松代在所の分は一重俵で差札も付けなくてよいことにする。ただし、搬送で傷(いた)みやすい江戸御飯米は今までどおりとする。

④万(よろず)小役・諸運上金は今までどおりとする。ただし、代金で間にあう小役は金納、薪(たきぎ)・藁(わら)・萱(かや)などの小役も、現物入用分を除いて残りは金納とし、年貢金納と同じく月割金納とする。

⑤御蔵屋敷・御賄所への納め物などは全廃する。

⑥月割上納金は、毎月山中・里郷それぞれの納入日を定め、その日名主が持参し上納する。月割上納金相場については、仮に前年の御立値段(おたてねだん)で納め、その年十月の御立値段で過不足を清算する。

などであった(『県史』⑦二四八)。

 なお、御立値段はその年(十月)立冬の松代町米相場を基礎に、上田・新町(信州新町)・須坂・善光寺町(長野市)・六川(ろくがわ)(小布施町)などの近隣諸領の米相場を勘案して、その平均値よりやや高値に設定した。具体例を安永五年(一七七六)の場合でみよう。この年、真米・覆(こぼれ)米・真籾・覆籾の松代城下町平均相場は、金一〇両につき四〇俵七升一合であった。これにたいし、近隣諸領の平均相場は四五俵一斗四升九合一勺であり、城下町の平均相場が一割二分八厘五毛高であった。そこで、さらに過去五ヵ年の両者の平均相場を比較したりして本年の御立値段を三八俵に相当するとした。しかし、去年も当年も夏作・秋作とも不作のため、籾値段が格別高値になり困窮の度合いを高めているので、本年は御立値段を引き下げ一〇両につき四〇俵とするとしている(災害史科②)。

 つぎに、月割上納金の納入方法をみていくと、原則として月割上納金を一二等分し、「里郷」は三月(のち四月になる)から「山中」は四月から上納をはじめ、七月までは三俵安、八・九月は一俵安とし、十・十一月は御立値段どおりに納入した。このように、七月まで三俵安なのは、まだまったく米のとれない時期の先納のためであり、八・九月の一俵安はまだ早稲(わせ)の収穫ぐらいしかない半先納のためである。なお、八月以降は二ヵ月分ずつ納入する。じっさいの御立値段の立て方は、七月までの値段を前年度御立値段をもとに二月に暫定的に公示し、八・九月分はその二俵増とする。十月に御定値段が正式に決定すると同時に、それ以前の分の過不足を更正決済する。

 月割上納が実施された結果、全収納籾にたいする金納分の割合は、月割上納実施前の宝暦六年の場合で四一パーセント、実施後の宝暦八年で五六パーセントであった。また、先納金の全年貢のうちに占める割合は、宝暦九年で里郷一八パーセント・山中八九パーセント、同十三年で里郷三四パーセント・山中八六パーセントであった(金沢静枝「松代藩の月割上納について」)。また、この宝暦改革によって松代藩の宝暦八年の金納分は、前年にくらべると金納分で合計金額が三五九一両、率では三四パーセントの増収となっている(表11参照)。


表11 宝暦改革による年貢収納量の変化

 月割上納実施後の年貢皆済の具体例を、先の四ッ屋村の安永九年七月の「亥御年貢皆済目録」(長野市博寄託)でみよう(数字等の表記を改める)。

  亥御年貢皆済目録

 籾納 一三百七十一俵四斗三升二合二夕

 下綿九十一匁二分八厘 一一俵二斗三升二夕

    (中略)

  〆三百九十一俵三升四合九夕……………………①

   この払

 一七十七俵二斗五升  御飯米二十駄二俵分

 一五俵三斗      御用大豆二駄二俵分

 常法幢料 一二俵        長国寺

 御蔵継 一九十五俵

  内

  六十俵   御足軽

  十俵    御畳刺

  十俵    御城番

  十五俵   御手廻り

   小以(こい)

 御扶持継 一五俵

    内

  四俵    御足軽

  一俵    御城番

  小以

 一十六俵  名主給

 一五十一俵 御蔵入

 一一俵二斗五升 古荒地起返り  大嶋条助受取り

 小以二百五十三俵三斗………………………………②

   残百三十七俵二斗三升四合九勺………………③

   内訳

 一俵二斗三升二夕

 下綿九十一匁二分八厘

 天秤(てんびん)にして百三十六匁九分二厘

  代金二分一匁六分   但し一両二百六十匁値段

 二俵二斗六合九夕

 役荏六斗八升四合六夕

  代金一両一匁六分一厘 但し一升銀九分つゝ

 八俵四升五合六夕 大豆金納

  代金二両十四匁八分五厘 但し三十六俵値段

 七十俵四斗  月割金納

  代金十四両三分   但し三月より七月まで上納

                四十八俵値段…④

 三十一俵四斗七升七合 右同断

  代金六両三分十一匁七分九厘 但し八月・九月上納

                四十六俵値段…⑤

 二十一俵二斗五升八合七夕 右同断

  代金四両三分一匁九分 但し十月・十一月上納

            四十五俵値段……………⑥

 三斗五升七合七夕 籾代金納

  代銀九匁五分四厘  但し四十五俵値段

 四斗三升八合八夕 御無尽御差次

  代銀十一匁七分  但し四十五俵値段

 代金〆三十両二分七匁九分九厘……………………⑦

   外

 金九両一分十三匁二分五厘 御小役………………⑧

 金四両 名主役金……………………………………⑨

 合金四十四両六匁二分四厘…………………………⑩

   この上納

 金一両      三月五日

 金二両三分    同 廿日

 金一両一分    四月五日

 金二両二分    同 廿日

 金一両      五月十日

 金二両三分    同 廿日

 金一両一分    六月五日

 金二両二分    同 廿日

 金一両      七月五日

 金二両三分    同 廿日

 金一両      八月五日

 金二両三分    同 廿日

 金一両      九月五日

 金六両      同 廿日

 金二分      十月五日

 金六両二分    同 廿日

 金一両二分    十一月五日

 金五両三分    同 廿日

 銀九匁五分四厘  十二月十二日

 銀十一匁七分   御無尽御掛け戻し

 小以金四十四両六匁二分四厘

   皆済

 右の通り相違御座なく候、以上、

          米山善十郎印

          堀内林左衛門印

          町田善五右衛門印

 右の通り亥(い)御年貢品々上納小切手引合い、皆済せしむる者也、

    安永九子年七月 〆木治郎右衛門印

                四ッ屋村

 四ッ屋村の安永八年(一七七九)の年貢上納高は三九一俵余(①)であった。そのうち、御飯米、足軽などへの御蔵継米、御蔵入米などあわせて二五三俵余(②)は籾で現物納し、残りの一三七俵余(③)は金納分とし、三〇両余(⑦)となった。これに、九両余の小役(⑧)と四両の名主役金(⑨)を加えて四四両余(⑩)を三月から十二月まで一九回に分割して月割上納している。上納値段をみると、三月から七月までは一〇両につき四八俵(④)、八、九月は四六俵(⑤)、十月・十一月は四五俵値段(⑥)であった。これからわかるように、三月から七月までの早い月の納入分は三俵安、八月・九月は一俵安であった。また、上納金の納入日は、「里郷」では毎月ほぼ五日と二十日であることがわかる。

 このようにして、松代藩の月割上納制が各村においておこなわれていったのであるが、その直接の誘因は、①松代藩の江戸入用金を直接に松代領内から計画的に獲得することがほんらいの目的であった。その背景には藩の江戸廻米-廻銀の放棄があり、松代藩では領内から必要な貨幣を獲得しなければならなかった。②そのため、年貢の年内皆済を実現するため、藩は月々の年貢皆済を村々の名主に強制した。松代藩には月割上納制にたえうるほどの商品生産の展開はなく、そのような段階で月々定額の年貢先納が強いられたのである。村役人は月割上納日までに領内外の豪農商から、あるいは藩そのものから借金をしてまでなんとか上納金を集めた。この月割年貢先納制は、四月・五月など早い月に現籾や現金を用意できるかぎられた一部の村の富農層に有利であったと考えられる(柄木田文明「松代藩宝暦改革と月割上納制」)。また、宝暦改革は、膨大にふくれあがった年貢未進金の処理にもある程度成功したと考えられる。たとえば、宝暦八年十二月段階で、寛延三年から宝暦六年までの七年間の未進金合計五四三四両余と銭一三七貫二一八文のうち、金三三七七両余と銭一三六貫六六二文を三〇年間の長きにわたって回収する計画を立てている(『市誌』⑬二七)。

 なお、弘化四年(一八四七)三月、領内山中を震源地としておきた善光寺地震の復興とそれにともなう藩財政の逼迫(ひっぱく)にたいする対策に、嘉永元年(一八四八)六月から向こう五ヵ年間にかぎっておこなわれた課業銭がある。江戸時代の貢租は石高制にもとづく高割りを原則としたが、この課業銭は一八歳から六〇歳までの男女の村人全員にたいして課された人頭税である(『市誌』④九章「水害と諸災害」参照)。