この項では、蔵入地の貢租と対比して地頭(知行主)知行地の貢租についてみよう。既述のように、地頭とは藩主から自分の領地と百姓とをもつことを許された有力家臣で、松代藩では江戸時代をとおして常時二六〇人前後であり、藩の要職につく家格でもあった。
地頭の知行地における権限は、大幅に制限されており(二項「家臣団の構成と地方知行」参照)、わずかに許されていた年貢徴収権も、松代藩では年貢率は平均免三ッ五分(三割五分)とされていた。すなわち、地頭はその知行する村から村免(村に課される年貢率)にもとづいて本年貢を徴収するが、三ッ五分をこえる年貢徴収分は、越石(こしこく)として藩庫へ返納し、逆に年貢収納不足分は、藩庫から不足俵として地頭へ蔵米から補給された。そのうえ、年貢の徴収にあたっては、二斗八騒動にもとづいて発布されたと思われる前記の延宝二年(一六七四)十一月十一日の「覚」一五ヵ条によって拘束されていた。
「覚」についてはすでに検討してきたので、ここでは知行地の年貢徴収の具体例を樋口家によってみていこう。地頭樋口家は、寛文元年(一六六一)の「寛文御分限帳」(『県史』⑦一六)によれば、更級郡下氷鉋村(更北稲里町)・水内郡小鍋(こなべ)村(小田切)・更級郡覆盆沢(いちござわ)村(大岡村)の三ヵ村であわせて二〇〇石を知行していた。その後、三〇石の加増をうけて二三〇石となり、寛政七年(一七九五)十二月の「御給所御免相目録」(『樋口家文書』真田宝物館寄託)によれば、つぎの村々で知行の配分をうけていた。
樋口峰之助殿
高二百三十石…………………………………………①
内訳
一高二十石 小鍋村
一高十三石二斗七升 覆後沢村
一高五石 杵淵(きねぶち)村
一高五石 高免 中俣(なかまた)村
一高七十一石七斗三升 下氷鉋村
〆百十五石 御借高………………………………②
四ッ八分 一高九十四石九斗九升三合 下氷鉋村
取籾百八十二俵一斗九升三合三夕
四ッ三分 一高六石六升七合 高免 中俣村
取籾十俵二斗一升七合六夕
三ッ八分 一高三石九斗三升三合 下免 同村
取籾五俵四斗八升九合一夕
四ッ三分 一高十石 杵淵村
取籾十七俵一斗
本知二百三十石内 高合百十五石 内七合高不足………………………………………③
取籾合二百十六俵…④
本途三ッ五分籾百六十一俵(⑤)御納成らるべく候、
取籾内本途三ッ五分籾引 越石五十五俵
口籾一俵三斗二升五合
本・口合五十六俵三斗二升五合(⑥)大嶋多吉方へ
御渡し成らるべく候、
(寛政七年)卯十二月 御郡奉行兼帯 金井甚五左衛門印
望月九郎右衛門印
右の史料からわかるように、知行高二三〇石(①)の樋口峰之助は、更級郡杵淵村(篠ノ井)など五ヵ村に知行地をもっており、このうち半知借上分の一一五石は(②)藩へ差しだし、残り半分の一一五石(③)を知行した。なお、寛保元年(一七四一)から恒常化する半知借上分は、藩の蔵入地と同じ扱いとなるので、藩が村名主をとおして年貢徴収をおこなった。
さて、樋口家は知行地のうち下氷鉋村で四ッ八分(四割八分)、水内郡中俣(なかまた)村(柳原)で四ッ三分と三ッ八分、杵淵村で四ッ三分の村免で、年貢を各村の蔵本(蔵元)をとおして徴収し、本年貢の取籾合計額は二一六俵(④)となった。しかし、藩がきめた平均年貢率は三ッ五分であるから、この率で樋口家の収納籾を計算すると籾一六一俵となる(⑤)。したがって、樋口家は口籾をあわせて五六俵三斗二升五合(⑥)を余分に収納したことになるので、この余分に収納した分、つまり越石分を越石代官大嶋多吉をとおして藩に返納した。
右にみた「御給所御免相目録」は郡奉行が発行し、地頭本人に通達されるとともに、知行地内の各村にも通達される。各村では、村方三役と蔵本とが連署でこの免相目録の請書として、「御給所御免相御書上帳」を郡奉行所に提出する。文政九年(一八二六)の杵淵村の場合でみると、同村には一三人の地頭がいた。その内訳は、一五石の樋口角左衛門など表12のとおりで、地頭一三人の知行高五〇五石のうち、一四五石余が藩の半知借上高、三五九石余が一三人の地頭の実質の知行高となっている。この三五九石余から、川欠け高などを引いた残高にたいする取籾は五九六俵となっていた(『更級埴科地方誌』③上)。郡奉行所から地頭あてに出された「御給所御免相目録」や村方三役・蔵本から郡奉行所あてに出された「御給所御免相御書上帳」とは別に、地頭から各村の知行所所属の蔵本と百姓あてに年貢・小役の割付状が交付される。また、それにたいして知行地の蔵本は、年貢収納の結果を地頭に報告する。樋口家の場合でみると、嘉永六年(一八五三)十二月、「丑御年貢并(ならびに)御小役共御勘定御書上帳」という形で、杵淵村は金七両一分と銀六分(ふん)七厘、小鍋村は、金一両三分二朱と銀三匁四分五厘、中俣村は金五両と銀七分三厘、下氷鉋村では金四一両一分と銀一三匁三分三厘を地頭樋口家に納入している。
このようにして、地頭樋口家は各村に分散している知行地の収納をおこない、それで同家の出納をおこなってきたが、江戸後期になればなるほど「米価下直(げじき)、諸色高直(しょしきこうじき)」の経済現象や生活様式の変化などでその財政状態は困窮化していった。その結果、樋口家ではその支配する知行地に御用達金を課したり、また借入金を申しこむなどして、その財政破綻(はたん)をつくろわざるをえなかった。たとえば、嘉永五年十二月、樋口弥治郎は中俣村につぎのように用立金を申し入れている(樋口家文書)。
先代から借財が多く、年を追うごとに物入りが重なり難儀している。高一石につき一ヵ年銀三匁を当年から向こう七年間用立ててほしい。返済方法は向こう一四年間で返納したい。
この返済保証には、弥治郎の父一角が「我ら頂戴の御知行のうちをもって差し継ぐ」としている。また、同七年(安政元年)二月には、下氷鉋村にたいし、金二両を六分(六パーセント)利付きで十二月まで借り入れたいと申しこんでいる。なお、下氷鉋村の善左衛門は、樋口家にかつて用立てておいた一六両の貸付金の返済を安政元年から三年にかけてうけている。
また、天保十三年(一八四二)七月、更級郡石川村(篠ノ井)などに三七〇石の知行地をもつ御役替公用方御取次役兼定火消役の池村八太夫は、石川村の蔵本・村役人加判証文によって、金六四両を藩役所から、一九両一分を同村南沢唯吉から借り入れているが、それは石川村の知行地百姓にとってなんとも迷惑なことで、なんとかできないものかと、蔵本・村方三役連名をもって代官所に嘆願している(下石川共有)。
このような地頭が知行地百姓から借財するケースは、他にもみられる。借財・御用達金などをめぐってしばしばトラブルが生じており、地頭を替えてほしいとする地頭忌避騒動もいく度となくおこっている(『編年百姓一揆史料集成』)。