藩財政の推移

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松代藩の内高(実高)約一二万石は、藩の直轄地である蔵入地と地頭(知行主)知行地とに分かれる。後者の知行地の財政収支決算は、個々の地頭によりおこなわれるが、それについてはすでに前項でふれてきたので、ここでは藩の蔵入地の財政収支についてみていこう。

 松代藩の過去一〇ヵ年分の財政収支の平均値を示した財政史料である寛文七年(一六六七)の「拾万石御分限帳大積(おおづもり)」(『県史』⑦二一)をみると、年間の本田・新田からの総収納高は籾で一七万五〇〇〇俵である。そのうち地頭の知行渡し分は七万七七九一俵余であるから、この分を差し引いた九万七二〇九俵余が松代藩蔵入地の年貢収納高となる。これから地頭以外の松代在住の藩士の切米や扶持米、また御馬飼料、万小遣(よろずこづか)い、足軽雑用金などを支出すると、残高は三万四五〇〇俵ほどとなり、これは約五〇〇〇両に換算される。これに、麻・漆・紙の運上金と川役銀・万御小役などの一〇〇〇両ほどを加えた約六〇〇〇両が蔵入地の収納残高となる。

 しかし、支出面ではこのほかに三ヵ年に一ヵ月の閏月(うるうづき)扶持米、万(よろず)御賄い入用、江戸表万入用分などがある。とくにこのなかでは、江戸の大名屋敷での費用には莫大なものがあった。さきの「拾万石御分限帳大積(おおづもり)」の末尾に記載されている寛文六年の「江戸壱ヶ年中御入目積(いりめつもり)」によると、江戸での主な経費は、江戸表での飯米代金三三六〇両余をはじめとして、江戸詰め藩士の扶持・雑用金一八三五両余、また江戸詰め藩士の切米と五月五日の端午(たんご)の節句、九月九日の重陽(ちょうよう)の節句および歳暮(せいぼ)の呉服代一四六六両余がある。さらに上屋敷・中屋敷・下屋敷の破損修復費用四二三両余、禁中築地(きんちゅうついじ)の御普請費用一九九両余、画家雪舟の三幅の絵の購入費九八両余、ときの老中久世(くぜ)大和守広之(ひろゆき)への御融通金二〇両など、合わせて金一万二一一八両余があった。したがって、藩の収支残高が約六〇〇〇両であるから差し引き約六一一八両余の赤字となった(表13参照)。


表13 江戸前期の藩財政状況 寛文7年(1667)

 このほか、今後入用が見こまれるものに、藩士の新規召し出しや加増、上・中・下屋敷の普請や修繕など、深川下屋敷の火消し道具の設置費用、松代城の破損費用、領内の干損や水損費用、また幕府からの御普請御用などがあった。これらの諸費用を加えると、先にみた赤字はさらに増大することが見こまれた。このうち、幕府の御普請御用には苛酷(かこく)なものがあった。たとえば、三代幸道(明暦四年(一六五八)~享保十二年(一七二七)在位)のときには、①明暦三年の振り袖火事で焼失した江戸城普請手伝いに藩は約四〇〇人を江戸に派遣したが、このときには二万五〇〇〇両を出費したといわれている。②また、天和二年(一六八二)の越後高田領検地には延べ一八一七人が動員された。③天和三年五月の日光山大地震にともなう日光諸堂の被害の復興手伝いにも延べ一五三一人が動員された。また、④元禄三年(一六九〇)の高遠領検地でも延べ七一四人の動員があり、⑤同十年の信濃国絵図作成御用があった。⑥同十六年からの善光寺本堂の造営は途中火事にもあい、宝永四年(一七〇七)七月足かけ五年の歳月を費やして完成するが、このとき善光寺造営費として二万四五七七両余の大金が費やされたという。その費用の一部を松代藩が負担したと推定される。⑦宝永四年十一月の富士山大爆発後の東海道の復旧手伝いに藩は四十余日を費やした。さらに、⑧正徳元年(一七一一)十月には朝鮮信使の仰接(ぎょうせつ)、⑨享保十年には、松本城主水野忠恒(ただつね)改易による松本城の受け取りと在番がなされた。これらの幕府課役による出費には莫大なものがあったと考えられる。

 この赤字の穴埋めとして、初代信之の遺金があてられた。遺金は二四万両余とも二七万両余ともいわれるが、そのうち松代城残置分の金一五万両は、幕府の御普請入用のため、万治二年(一六五九)から寛文年間(一六六一~七三)までのあいだに江戸屋敷へ送金して大部分を費消している。このようにして、信之の遺金は、死後数年で大部分が使われてしまったようである。

 このような寛文期の財政状況の赤字基調は、克服されることなく引きつづく。享保十五年(一七三〇)の財政収支の残高は金六三四四両余・銀七匁五分余・銭一貫三〇三文であった。しかし、この史料には江戸藩邸での支出分が計上されていないから、松代と江戸藩邸とを合算した藩の財政収支は赤字をまぬがれなかったとみられる(『県史』⑦三三)。

 財政窮乏化にたいし、藩では倹約奨励、上方や御用商人からの借入金、幕府からの拝借金、年貢増徴、半知借上、御用金賦課、貸付金利子収入、殖産興業策、藩の専売制実施などもろもろの対策を実施していかざるをえなかった。上方商人からの借入金は、延宝年間(一六七三~八一)から京都商人を中心に始まった。具体例を二、三みると、同三年四月、藩は京都の豪商伊勢屋道詮(どうせん)から銀三〇貫匁を元利とも五ヵ年にわたって借り入れている。このときの利率は銀一〇貫匁につき三貫匁であった。当時、両替相場は金一両=銀六〇匁であったから、銀三〇貫匁は金五〇〇両にあたる。また、同年に茨木(いばらき)屋宋栄(そうえい)から銀三〇貫匁を五ヵ年を限度に三割の利率で借り入れている(『真田家文書』下)。この二例は無担保の信用借りであるが、元禄十五年ころからは藩は収納する年貢米を抵当に入れて前借する形式をとらざるをえなかった。元禄十五年十一月、藩は鎰屋(かぎや)権三郎・伊勢屋三郎右衛門・松屋源三郎・小川作左衛門からおのおの銀一〇貫匁を来秋収納予定の年貢米二〇〇石を抵当に、また八文字屋久太郎からは銀一五貫匁を同じく三〇〇石を抵当に借用した。また、銭屋久右衛門からは銀三〇貫匁を六〇〇石を抵当にして前借りしている。返済方法は年貢米を江戸に送り、そこで換金して京都に送るととりきめている。この上方の豪商らからの借銀→江戸廻米→換金→返済という方法は藩に負担を強いるものであり、藩政の大きな課題となった(『市誌』⑬一三)。

 いっぽう、松代城下の御用町人伊勢屋八田家(八田分家)からはたびたび御用金を出させ、初代孫左衛門重以のとき総額で二一万六六〇〇両余、籾四六万四八〇〇俵の多きにのぼったといわれる。孫左衛門は、享保十二年十二月に三〇人扶持を給与されて士分に加えられ、ほかに年貢米二九五俵を御用金の利息と引き換えに免除されている。二代嘉助芳重の時代になると、これまでの御用金の切り捨てを命じられ、そのかわりに二〇人扶持の加増をうけ、都合五〇人扶持となった。また、新しく一〇〇〇両の御用金才覚を命じられたが五〇〇両を献上し、残りは戌(いぬ)の満水による被災のため上納は困難である旨を申しでている(吉永昭「城下町御用商人の構造」)。

 これより先、享保十四年二月、藩財政の逼迫(ひっぱく)のため、家臣の知行と扶持米の半分を臨時に借りあげる半知借上をおこなっているが、寛保元年(一七四一)からは制度化され、このとき借りあげられた知行地は蔵入地として処理されるようになった。そのため、蔵入地は全領のほぼ八割を占める(表14参照)。しかし、この政策も藩財政の本格的な改善策につながるものとはいえなかった。なお、この半知借上策のため、江戸勤番の武士も窮迫し、大身の藩士でも飯米の俵を買い入れる資力がなく、深夜ひそかに銭五〇文あるいは一〇〇文の買い入れで穀屋の暖簾(のれん)をくぐったので、当時「松代藩の提灯(ちょうちん)袋米」といわれて江戸市民の笑いものになったという。このため、寛延二年(一七四九)九月から足軽などは半知借上の撤廃要求を始めたがいれられず、翌三年正月一日「今朝御足軽残らず詰め場をあけ、諸御役人の付け人と使番まで残らず番所詰め場をあけた」(『市誌』⑬二一)。このストライキはかなり長期間にわたったらしい。そのため、同年二月十一日にいたり、小身のものほど難渋することが認められ五〇石以下のものは半知借上を免除されることになった。


表14 松代藩の内高・地方渡高・蔵入地高の変遷

 財政収支の改善策としてだれしも考えるのは年貢増徴策であるが、五代藩主信安が召し抱えた田村半右衛門の増徴政策は、前にみたように寛延四年(一七五一)八月の田村騒動で挫折した。松代藩にかぎらず、年貢増徴策は、百姓がわの惣百姓一揆による抵抗をよびおこし、実現しがたい時代になっていたのである。

 享保二年の二度の大火で藩は城郭の大半と城下の六三〇軒余を焼失した。藩は幕府から一万両の拝借金をうけている。また、寛保二年の戌の満水でも藩は一万両を拝借し、さらに宝暦七年八月の大洪水でも一万両を拝借せざるをえなくなっていた。これらの拝借金は被災地の復興資金にあてられていくが、一部は財政復興資金にもあてられたろうと考えられる。このような状況下で、松代藩は本格的な財政改革をおこなわざるをえない状況に追いこまれ、宝暦八年からの恩田木工らによる宝暦改革となっていくのである。一九世紀に入ると、各藩は殖産興業策で領内の絹・紬などの特産物の奨励をはかり、そこからも財源を求め藩財政の改善に役立てようとする。松代藩においても、文政九年(一八二六)の糸会所の設置、天保四年(一八三三)の産物会所の設置となっていくが、宝暦改革以降の藩政の動向は『市誌』④一三章「支配の動揺と町・村」で記述する。