松代藩の戸口改め

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近世の人別改めは、豊臣政権が領民を夫役(ぶやく)に動員する目的で人員掌握(しょうあく)のためにおこなった家数・人数改めに始まる。近世の領主にとって、領民を掌握する人別帳の作成は、土地とその貢租負担者とを記載した検地帳とともに、もっとも基本的な支配台帳であった。「家別人別帳」、「人詰(にんづめ)改帳」などと表記され、夫役負担者の男だけを書き上げる場合が多かった。

 松代領内の人別改め帳の初見は、松平忠輝領時代の慶長十九年(一六一四)更級郡下横田村(篠ノ井)の「人詰御書上帳」の写し(篠ノ井 望月威智男蔵)である。この村には、真田氏入封後まもない寛永三年(一六二六)の「人詰御書上帳」の写し(同前蔵)もある。双方とも後書きに「面々家内老若男女(ろうにゃくなんにょ)・年数、そのほか他所より当村へ借家いたし居るもの年数まで残らず書きのせ」とあるように、一軒ごとに家内人別を、男・女とも二歳のこどもまで記載して、村の総人口を示している。


写真11 慶長19年(1614)下横田村人詰書上帳
(篠ノ井 望月威智男蔵)

 その後、松代藩の人別改め帳は、承応(じょうおう)三年(一六五四)の「下横田村人詰御改帳」を早い例として寛文(かんぶん)年間(一六六一~七三)にかけて、五人組ごとに男のみが書きあげられ、しかも下人(げにん)・合(相)地(あいじ)・地下(じげ)・門屋(かどや)・借家・加来(からい)などという村落内の身分が記された「人詰御改帳」として制度化されていく。一八世紀半ばから「女人詰御改帳」も別途に作成され、文政年間(一八一八~三〇)までこの形式がつづく。

 近世の領民支配の帳簿にはもうひとつ、「五人組帳」がある。寛永年間(一六二四~四四)にキリシタン禁制の取り締まりと治安維持、年貢納入の連帯責任を徹底し、百姓が耕作する土地から離れないように相互監視させるためにもうけられた五人組改めの制にもとづくもので、前々からの村落内の隣保組織を支配機構の末端に組みこんだものである。「五人組帳」は領主の支配統制令を箇条書きした前書き部分と、その条規を遵守(じゅんしゅ)する旨を記して五人組の成員が連署する部分からなる形式が一般的である。ところが、松代藩の場合は近世後期まで、「五人組帳」という表題の帳簿は作成されなかった。「人詰御改帳」が五人組ごとに男全員を掌握していて、実質的には五人組帳であった。「人詰御改帳」が消滅して、「五人組人別帳」あるいは「五人組軒別人別御改帳」、「家数人別五人組御改帳」などと表記されて、男女とも同じ帳簿に記載されるようになるのは、近世後期の文政九年(一八二六)以降のことである。

 いっぽう、幕府は寛永十七年、キリシタン禁制を目的として幕府領内に宗門改め役をおいて宗教統制を強化した。その後、寛文四年(一六六四)に幕府は諸大名にたいして、毎年領民一人ひとりの宗旨を確認する宗門改めを実施するよう命じた。諸藩の宗門改めは、これ以降本格化した。一般には以前から実施されていた人別改めに便乗した形で始まり、寛文末から宝永・正徳(しょうとく)(一七〇四~一六)ころにかけて「宗門人別改め帳」として一本化され、これが戸口改めとして、領民の戸籍簿的役割をはたすようになっていった。松代藩でも寛文年間に宗門改めが始まり、延宝・天和(てんな)年間(一六七三~八四)ころに宗門改め帳の作成が制度化されていく。そして、五人組改めを意図した男女別冊記載の「人詰御改帳」と、宗旨別に男女ともに総人員を改めた「切支丹宗門御改帳」は一本化されることなく、それぞれ別途に作成されつづけた。人詰改めは職奉行が担当した。

 こうした松代藩独自の戸口改めの流れを追ってみよう。