先に記した下横田村には、承応三年(一六五四)から文政六年(一八二三)までの「人詰御改帳」の写しも残されている。このうち万治二年(一六五九)から元禄十六年(一七〇三)のものには、明暦三年(一六五七)正月の五人組制度をとおして支配強化をねらった幕府条目に違背しない旨の「差し上げ申す一札の事」が付いている。また、領内各村の「人詰帳」の後書きまたは前書きには、近世初期から後期まで、ほぼ一貫してつぎのような文言があった。
一このたび、人詰御改め仰せつけられ、家内男子の分、そのほか下人・合地・地下・門屋・借家のものにいたるまで、すべて当村に住居のもの一人も残らず御帳に書きのせ差しあげ申すべきこと。
一売買のため他所へ出るものがいるならば、肝煎(きもいり)(のち名主)・五人組へ子細を断わって出ること。
一他所より引っ越したいというもの、または他所へ参り居住したいというものがいたら、郷中で吟味して書き付けをもって御奉行所へ申しあげ、御意次第にするべきこと。
人詰帳の記載形式は、寛保(かんぽう)元年(一七四一)の水内郡橋詰(はしづめ)村(七二会)を例にとると、つぎのようである(『七二会村史』)。
一曽右衛門 年七十三 印 子 三四郎 年二十
弟 次郎 十三 相地 甚太郎 廿七
一三次郎 年五十一 印
一七之助 年五十九 印 子 太郎 廿四
一嘉助 年四十七 印 いとこ 卯之助 十四 相地 又次郎 九ツ
同 万太郎 廿八
同 八兵衛 十九
一助三郎 年三十四 印 おじ 市左衛門 五十 子 与四郎 四ツ
五人組 〆十五人
このように、「一(ひとつ)」の下に頭判百姓の名を記し、その下に子・孫などの直系親族、さらに弟・叔伯父(おじ)・従兄弟(いとこ)などの傍系親族、従属身分である相地・借家・門屋・加来などの判下百姓の男ばかり、じっさいには別に世帯を構えるものもひとくくりにして「一軒」とされている。さらにこれをほぼ五軒を一組の五人組として、男人数を集計している。近世初期にあった人別改めとしての「人詰改帳」をとおして、村落内部の身分関係をもとに領民を掌握し、相互監視機関としての五人組を組織したことがわかる。
男だけの「人詰御改帳」にたいして「女人詰御改帳」は、寛延三年(一七五〇)を初見として文政五年まで、子(ね)年と午(うま)年の分だけが領域内の村々に散見される。「人詰御改帳」と同じ形式で、「一」の下の男の頭判百姓名の下に、女房・母・娘・孫娘、さらに血縁・非血縁の判下百姓の女房・娘・孫娘ら女ばかりが書きあげられ、やはり五人組ごとに人数が集計されている。
享保(きょうほう)六年(一七二一)六月、幕府は全国規模での人口調査を命じた。その後、同十一年二月に全国にふたたび人口調査を命じるとともに、以後六年ごとの子年と午年に人口調査をして幕府に報告するよう、諸藩に求めた。松代藩の「女人詰御改帳」は、幕府のこの人口調査に応じたものであろう。毎年調査される「人詰御改帳」の男分と、子・午の年に調べる「女人詰御改帳」の女分を合わせた領内の総人口を、幕府に報告したものと思われる。