「人詰改帳」から「五人組改帳」へ

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ところで、文政六年(一八二三)ころを最後に、男だけの「人詰御改帳」は消滅する。「女人詰御改帳」も同五年の午年が最後である。この直後の文政九年以降に「五人組御改帳」あるいは「家数人別五人組御改帳」といった表題の帳簿が成立する。

 この「五人組御改帳」は男女の人詰帳を合わせたもので、人詰帳と同じ形式で村内の全人員が書きあげられた。「一」打ちの頭判百姓の下に、男女とも家族全員の名前が記され、五人組ごとに小集計され、さらに末尾に村内総人数と、一年間の出生・死亡・縁付・引っ越しなどの異動数を集計している。

 従来の人詰改めは男だけの人口調査であり、女は子・午の年に調査されるだけで不都合であった。女の人口動態も毎年詳細な調査が必要となった。「五人組御改帳」によってはじめて、女もふくめて男女とも同一帳簿で人口動態調査がなされることになり、戸籍簿的な意味合いをもつものとなったのである。

 この文政九年、松代藩は二二ヵ条からなる「五人組御改前文」(戸隠村 宮川近太蔵)を触れて、村々で写しおくよう申しわたした。「生類あわれみ申すべきこと」「捨て子・捨て馬いたすまじきこと」など元禄以来の条目に加えて、「男女とも他所へ奉公ならびに日雇いにても出(い)で申すまじきこと」「山中筋麻手・紙手金定め証文の趣きっと守るべきこと」「立ちがたき願い、先規にないことを企てて大勢寄りあい、連印帳などをこしらえ騒ぐことはいたすまじきこと」など、当時の世情を盛りこんでいる。これらの条目は、五人組の強化をねらった明暦三年(一六五七)の幕府条目、延宝四年(一六七六)に触れた藩法度とあわせて守るよう説いている。

 後述するが、宗門改めも文政八年を画期として改革が始まる。文政六年、家督を相続して八代松代藩主となった真田幸貫(ゆきつら)は、法制・職制・軍制の整備、産業の振興などの藩政改革を推しすすめた。人詰改め・宗門改めの改革も、この一連の施策のなかでおこなわれたものであろう。

 ところで藩は、村ごとの「人詰御改帳」「家数人別五人組御改帳」を、行政区画である九つの「通り」ごとに合冊し大冊をつくった。この簿冊の管理をしていた石坂家に、天明八年(一七八八)の八通り分と、慶応三~四年(一八六七~六八)の九通り分が残された(『石坂家文書』県立歴史館蔵)。領内全域の詳細な人口統計が可能な貴重な史料である。