キリシタン類族改めと宗門改め

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宗門改めは、キリシタン禁圧の手段として一人ひとりの宗旨を確認する政策である。幕府は、寛文四年(一六六四)にキリシタン取り締まりを制度化した。諸藩に専任の宗門改め役を設置するよう義務づけ、キリスト教を捨てて仏教に改宗した転びキリシタンの登録制を通達した。

 松代藩ではこのころ寺社奉行をおいて行政機構を整え、領民の宗旨改めをおこなったが、はじめは証文形式であった。宗門改め帳が作成されるのは、延宝九年(天和元年、一六八一)のことである。更級郡牛島村(若穂)の帳簿をみると、キリシタン宗旨のもの、また類族のものも一人もいない旨の取り締まり文言(もんごん)の前書きにつづいて、村内一人ひとりの名前の上に檀那(だんな)寺や年齢が書きあげられ、末尾に寺の請印(うけいん)が押してある。頭判百姓のあとにその家族、傍系親族や判下百姓とその家族が書きあげられた。男にだけ、その家の頭判の印判が押されている。

 老若男女だれもがいずれかの寺院の檀那(檀家)とされ、寺院の責任でキリシタンではないことを証明させた寺請け制度である。翌天和二年五月、キリシタン禁制の高札が領内に立てられた。その後、諸藩の宗門改めはしだいに形式化し、宗門人別改め帳は戸籍簿的な性格が濃厚になっていくなかで、松代藩のこの書式と「切支丹宗門御改帳」の表題は、文政八年(一八二五)までつづき、宗旨改めの趣旨は一貫していた。

 貞享(じょうきょう)四年(一六八七)、幕府は転(ころ)びキリシタン取り締まり制度をさらに強化して、キリシタンの血統四代におよぶ類族改めの法令を出した。松代藩はこの幕命をうけて、八月、領内にキリシタン類族改めをおこない、「類族宗旨御改帳」を書きあげた。松代城下鍛冶町に転びキリシタン才三郎がいて、すでに死亡した本人才三郎をはじめ、女房・父母・継母・子・孫・弟・甥(おい)・姪(めい)、子の配偶者、女房の父母まで、領内外の六三人が登録された。それぞれの檀那寺名に請判(うけはん)が押され、年齢、名前、才三郎との続柄、職業、死者は法名・没年まで記している(『県史』⑦一〇四)。類族改めはこのあとも長くつづく。

 宝暦二年(一七五二)八月、藩は領内の宗門改めの実施方法を改革して定式化した。キリシタンおよび類族取り締まりの趣旨はそれまでと変わらないが、改めの期日は八月とし、宗門奉行が領内を日割りして回村すること、肝煎(きもいり)(名主)方へ寄りあい、組ごとにその年に生まれたこどもから改め、頭判が印判すること、寺院の請判(うけはん)は別の日に宗門奉行所に出向いて請判することなどの手順を定めた。これまで同様に、格式のある家は別に一本証文を作成することも認められた。

 享和二年(一八〇二)、更級郡大塚村西組(青木島町)の「切支丹宗門御改帳」(青木島 小山章夫蔵)は、それぞれの宗旨ごとに取り締まり文言を前書きした帳簿を仕立てて合冊している。その記載形式は左のようである。


一綱島村浄土真宗浄円寺旦那印   年四十九  与五右衛門帳下 惣太郎印

一宗旨寺       同断印   年六十九  母印

一宗旨寺       同断印   年四十三  女房印

一宗旨寺       同断印   年十六   子 栄治郎印

一宗旨寺       同断印   年八ツ   子 重太郎印

   人数合五人内男三人女弐人

 一軒ごとに男女とも家族全員が書きあげられ、各人に寺の請判と各家の判が押されている。

 文政八年、人詰改めと同様に宗門改めも大きな変革があった。それまで八月におこなわれていた宗門改めは、人詰めと同様に春三月にいっしょにおこなうよう申しつけられた。村によっては翌九年三月から実施に移され、帳簿の表題も「宗門人別御書上帳」と変わり、宗旨あるいは寺ごとに別立てとなった。それまで一人ひとり書きあげたのとはちがい、人詰めと同様に、一軒ごとに戸主の下に親・女房・子・孫などの家族の名前が記されるようになった。ただし、合(相)地・門屋・借家などの判下百姓は、頭判と宗旨がちがう場合はそれぞれ別に書きあげられることもあった。宗旨ごとに、五人組帳とまったく同じ形式で一年間の出生・死失・引っ越しなどの異動をまとめている。女も縁付いてくるときに宗門送り状をもらってくることを義務づけ、男と同様に奉行所で双方の宗旨寺を突きあわせた。これは「これまでは決してなかったこと」と、埴科郡森村(更埴市)の中条唯七郎は『見聞集録』に記している。五人組改帳に女も登載するようになったこととあわせて、藩は女の異動にも注意を払うようになったことがわかる。

 天保(てんぽう)五年(一八三四)十二月、藩はそれまで郡奉行の所轄であった宗門改めを職奉行が担当することを触れた。同十四年には職奉行と郡奉行は合体して郡奉行となり、人詰め・宗門改めとも郡奉行の担当となった。『見聞集録』は「宗門・人詰めともに手順は文政八年以来毎年変わってなかなか定まらなかったが、天保十五年ころにようやく落ちついた」としている。このころ、藩の人別改めの施策は試行錯誤を重ね、揺れうごいていたことがわかる。

 しかし、人詰改めとしての「五人組御改帳」と、宗門改めとしての「宗門御改帳」とは、改めの日時、記載形式など、きわめて似かよったものになったものの、両者は幕末まで一本化されることはなかった。