松代領の人口

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江戸時代の全国人口は、一七世紀のうちは新田開発の進行や農業生産性の向上によって大幅な人口増加がもたらされたが、一八世紀に入ると経済発展の停滞とともに人口も減少あるいは停滞状態となった。その後、一八世紀末からは経済活動の活発化とともにふたたび回復して上昇に転じた。

 表15に示すように、松代領内の人口が判明するのは、一八世紀中は、幕府がはじめて全国規模での人口調査を命じた享保六年(一七二一)と、安永八年(一七七九)の二年分のみであるが、一九世紀に入ると、ほぼ人口動態をたどることができる。ただ、この数字は、藩士の数はふくまない。


表15 松代領の人口

 享保六年は九万八六〇六人、五八年後の安永八年は九万九六六八人で、一八世紀半ばの人口は停滞ぎみである。その後一八世紀末から一九世紀初頭にかけて急増し、享和元年(一八〇一)は一〇万九三一〇人となる。さらに一〇年後の文化七年(一八一〇)には一一万八八二一人となり、この間の上昇率は九パーセント近い。このころが山中・里郷とも人口増加度のピークで、さらに天保五年(一八三四)に一三万人の大台にのり、一九世紀初頭の勢いはないものの上昇傾向はつづく。ただし、文政年間(一八一八~三〇)に入るとやや停滞し、山中では減少気味となる。文政八年の藩政の諸改革をへて、天保五年ころまではふたたび増加に変わるものの、打ちつづく飢饉(ききん)にみまわれたあとの天保十四年までの一〇年間は山中・里郷ともに減少し、一二万四一三〇人にまで落ちこむ。さらにその後、弘化四年(一八四七)の善光寺地震をはさんで嘉永六年(一八五三)までの一〇年間は、山中と里郷では大きく異なる。山中は減少あるいは停滞状態がつづくが、いっぽうの里郷は一八世紀初頭に次ぐ人口増加の勢いである。その後、慶応元年(一八六五)までの一一年間は、里郷の人口増加はやや勢いは落ちるものの増加傾向はとまらず、また山中も、里郷に勢いはおよばないものの順調に増加に転じて、一三万四五〇一人となっている。明治二年(一八六九)~三年の「藩制一覧」(『県史』⑨二九)によると、松代藩内の士族もふくめた総人口は男七万四二四九人、女七万四四二〇人、計一四万八六六九人であった。

 松代領の人口は、近世中期の享保六年から幕末までの約一四〇年余で三六パーセント増加したことになる。増減の波は全国人口の動態とほぼ同じだが、近世後期における人口増加度ははるかに大きい。

 人口が急増した一八世紀末から一九世紀はじめにかけて、善光寺平の村々では木綿・菜種栽培や養蚕業がさかんになり、しだいに労働力不足が深刻化していた。領内外の経済活動が活発化するなかで、領内人口は文政年間に入ると停滞、あるいは山中では減少傾向すらみせるようになった。藩は文政七年に城下の町八町(まちはっちょう)と町外町(ちょうがいまち)に奉公人世話宿を、九年には村々に奉公人世話役を置いて、奉公人の確保にのりだした。山中筋でも麻や紙などの商品生産がさかんになり、経済活動が活発となり、人びとの異動が激しくなっていた。藩はこうした社会情勢の変化に対応する必要に迫られていた。文政九年の「五人組帳前書き」にもその意図がうかがえる。文政八年前後から、ふたたび人口増加に転じた。天保飢饉、弘化四年の善光寺地震にあって山中・里郷ともに大きく減少するものの、しかし里郷のほうはまもなく回復して幕末に向けて人口の大きな増加がつづく。いっぽう、労働力の供給源となった山中は、弘化・嘉永年間(一八四四~五四)は微減ないしは停滞状態がつづき、安政年間(一八五四~六〇)以降になってようやく増加に転じた。

 ところで信濃国では、江戸時代中期の人口停滞期には女の人口は男より少なく、男一〇〇にたいして女は九〇前後で、人口が増加に向かう後期に九五から一〇〇に近づくのが一般的であった。ところが松代領の里郷では女人口の増加が目だち、天保年間(一八三〇~四四)には男を上回った(表16)。なかでも善光寺町をとりまく畑作地帯の川北通りの村々では、男一〇〇にたいして女が天保三年で一〇六、慶応四年(明治元年、(一八六八)で一〇三と、きわだって女が多かった(表16)。


表16 松代領の人口男女比

 図3は慶応三年山中新町組の更級郡今泉・氷熊両村(信更町)、同四年里郷川北通りの水内郡南俣・千田両村(芹田)の年齢別人口構成図である。四ヵ村とも、おおむね若年層ほど人口が多く高齢になるにしたがって減っていくピラミッド形をした人口増加型である。それも里郷の南俣・千田両村のほうがはっきりしている。この両村は各年齢層とも女のほうが多く、男一〇〇にたいして女はそれぞれ一一五と一一三である。ことに一〇代以下は断然女が男を上回っている。南俣・千田両村は木綿・菜種栽培がさかんな地域で、労働力として女の需要が高かったことをうかがわせる。いっぽう、山中の今泉・氷熊両村は男にたいする女の比はともに八四で、里郷とは逆に各年代層とも男のほうが多い。ことに女は一〇代以下の若年層が少なく、人口増加の勢いの弱い釣り鐘(つりがね)型に近い。


図3 年齢別人口構成 慶応3年(1867)