松平氏上田藩の政治

181 ~ 183

宝永三年(一七〇六)六月、上田藩主仙石氏は但馬(たじま)国出石(いずし)(兵庫県出石郡出石町)へ転封となり、入れかわりに出石から松平氏が更級郡川中島領一万石をふくむ五万八〇〇〇石で上田へ入封(にゅうほう)した。この松平氏は一八松平氏のひとつであり、三河(みかわ)国藤井(愛知県安城(あんじょう)市)に住んでいたので、藤井松平氏といわれた。上田入封時の藩主は忠周(ただちか)で、以下、忠愛(ただざね)・忠順(ただより)・忠済(ただまさ)・忠学(たださと)・忠優(ただます)・忠礼(ただなり)と七代つづき、明治四年(一八七一)の廃藩置県まで一六六年間を数えた。なお、二代忠愛は享保(きょうほう)十五年(一七三〇)八月、父忠周の遺言にもとづき弟忠容(ただやす)に川中島領一万石のうち五〇〇〇石を分知したので、以後五万三〇〇〇石となった。


写真12 出石城跡
(兵庫県出石郡出石町)

 仙石氏から松平氏へと交代してからの行政上の大きな変化は、つぎの三点だと考えられている。

 ①藩士の知行が地方(じかた)知行制から蔵米(くらまい)知行制へとかわった。地方知行制とは、百姓つきの土地(地方)で知行をあたえる制度で、知行地の領主である知行主(地頭)が、その土地と領民に年貢徴収や百姓使役などのある程度の支配権をもつものである。仙石氏の元禄時代、上級家臣のなかに知行主が一七〇〇石から二〇〇石取りまで六五人いたが、松平氏の上級家臣は蔵米取りの俸禄制へとかわる。なお、川中島領は仙石氏時代から藩直轄の蔵入地であったので、知行主は一人もいなかった。

 ②籾(もみ)納の年貢米が米納になった。上田藩は他の多くの諸藩とちがって、廃藩置県まで田畑の収穫高をあらわすのに、石高制ではなく貫高制を用いていたが、その貫高から村の年貢米を計算する方法はつぎのようになった。村の貫高から諸引き物を差しひいて、村の実質の貫高をとらえ、そこに年貢率に相当する定代をかけて納入籾俵数(一貫文=七俵として計算)を計算する。その籾の俵数を一俵の籾から米三斗八升を得る割合で換算して米高になおす。この三斗八升というのは、京枡(きょうます)籾一俵六斗入りを六合摺(す)り(籾一升から玄米六合)にして、これに口米二升を加えたものと考えられている。川中島領は慶長三年(一五九八)の豊臣政権による川中島四郡検地以来、石高制が施行されていたので、このような換算をおこなう必要はなかった。

 ③割番(わりばん)や村庄屋のうえに、大庄屋(おおじょうや)を置き統制機構を強化した。松平氏時代の村方・町方制度は仙石氏の時代と同様、小県(ちいさがた)郡の所領を小泉組(一一ヵ村)・浦野組(一五ヵ村)・塩田組(二二ヵ村)・田中組(一九ヵ村)・国分寺組(一三ヵ村)・洗馬(せば)組(一〇ヵ村)・塩尻組(一二ヵ村)の七つの組に編成する組制度を実施した。また組に準ずるものとして、小県郡武石(たけし)村(武石村)と上田城下および川中島八ヵ村(享保十五年八月以降は五ヵ村)を行政単位とした。各組を構成する村々には、それぞれ庄屋・組頭・長(おさ)百姓の村方三役が置かれていたが、そのうえに数ヵ村を統括するものとして割番が置かれていた。享保二年、忠周が京都所司代に就任したとき、上田領内の地方(じかた)支配が手薄になることを憂慮して、組ごとに大庄屋を設置したといわれる。ただし設置時期には異説もある。川中島領への大庄屋の設置は、享保二年に幕府領になっていた川中島領が享保十五年に上田領に復帰したときからである。大庄屋の主な役割は、割番と相談しながら組の治安維持につとめることにあった。大庄屋は苗字(みょうじ)・帯刀が許され、五人扶持などが支給された。また、小使一人の使用が容認された。急用のときや夜中には乗馬で城下に入ることも認められた。大庄屋制は元文(げんぶん)五年(一七四〇)に廃される。

 なお、宝永三年六月に、入封した松平氏は同年全領の村々を掌握するため、各村からその位置・本貫高・切り起こし高・土質に始まり、家数、人口、寺社、農作物の種類、屋敷の樹木、馬医にいたるまで報告を求めた。この「宝永指出(さしだし)帳」は上田領の村々を調べる基礎史料となっている。