上田藩川中島領の政治

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宝永三年(一七〇六)六月、松平氏が仙石氏から五万八〇〇〇石の上田領を引きつぐにあたり、その一部の川中島領八ヵ村のうち、一万石をこえる部分の八八石八斗五升三合が今里村で幕府領となった。このため、今里村は一〇五六石八斗九升八合の上田領と八八石八斗五升三合の幕府領の分け郷となった。これは、更級郡での唯一の幕府領である。なお、宝永三年六月以降の八ヵ村の石高は表17のとおりである。


表17 上田藩川中島領八ヵ村の石高 宝永3年(1706)6月

 この川中島領八ヵ村は、初代忠周が京都所司代となるにあたり、御飯米確保のため近江(おうみ)国(滋賀県)浅井(あざい)・伊香(いか)両郡内に替地一万石をあたえられたため、享保二年(一七一七)十二月から幕府領となり、二代忠愛の同十五年五月、上田領に復帰した。また、享保十五年八月、忠愛が弟忠容(ただやす)に川中島領一万石のうち五〇〇〇石を塩崎村(篠ノ井)・今井村(川中島町)・上氷鉋(かみひがの)村(同)と中氷鉋村(更北稲里町)の一部で分知したので、川中島領は五〇〇〇石五ヵ村となり、稲荷山(いなりやま)(更埴市)・岡田(篠ノ井)・今里(川中島町)・戸部(同)の四ヵ村と中氷鉋村の一部となった。

 つぎに川中島領の統治形態をみる。前項でふれたように、川中島領八ヵ村は、上田領の七つの組に準ずるものであったから、藩の郡奉行-代官の支配下に川中島領を統括するものとして、割番一人が置かれ、そのもとで、各村の庄屋・組頭・長(おさ)百姓の村方三役が村政にあたった。前記のように、享保二年忠周が京都所司代に就任したさい、留守中の領内支配が心もとないとして、大庄屋を設置させたが、川中島領八ヵ村は、享保二年十二月から幕府領となったため、享保十五年三月に上田領に復帰したとき、大庄屋が設置された。大庄屋の勤務内容の主なものは、享保十八年十二月の「大庄屋勤方二拾壱箇条」(『県史』⑦三三九)によると、主な点はつぎのとおりである。

 ①領分村々のことについては、いつわりなく代官へ報告する。②年貢は期限に一日も延引することなく上納できるようにしておく。③年貢や小物成などの割りつけ方については、割番立ち会いのうえ、小百姓にいたるまで納得いくようにする。④万一、火事があったり、またおおぜいが集まって口論などがあった場合は、早速解決にあたり、場合によっては委細を代官所に届けでる。⑤検見(けみ)役人が回村するときは、いっしょに村々を回る。⑥庄屋や組頭の訴訟願いを取りつぐ。⑦庄屋で勤務を怠ったり不作法のものがおり、村方の取り計らいに差し支えのある場合は、代官まで訴えでる、など。川中島領の大庄屋の仕事の内容も、上田本領とほぼ同じで、治安維持にあたることにあった。享保十八年十二月段階では、川中島領の大庄屋は内村惣兵衛であるが、その経歴は不明である。川中島領でも、大庄屋制は元文年間(一七三六~四一)に廃止された。その後は、割番が大庄屋の役割を兼ねたと考えられる。川中島領の割番は、中氷鉋村の豪農で、武田・上杉の川中島合戦のおりの「幕張りの杉」の家(『市誌』②二編四章四節参照)として知られる青木家がその任についており、代々世襲であった。

 なお、五代将軍綱吉の治世下で生類憐みの令が発布されていたが、川中島領今井村に、その実施例がいくつか残っている。いずれも、宝永四年から五年にかけてのものであるが、犬の出生や死亡届、また村内の「御犬」や鶏の書きあげである(『市誌』⑬一二〇~一二三)。上田藩は私領とはいえ、譜代の藤井松平氏であり、所領がかわったばかりの松平忠周は、若年寄・側用人から京都所司代・老中と出世した閲歴が示すように、徳川将軍の政策の忠実な実行者となっていたものと思われる。

 川中島領一万石の本年貢高は、「宝永指出帳」によると、四四三九石三斗余であり、駒運上・胡麻(ごま)運上・詰夫(つめふ)・御会所詰夫などの小物成高は三二両余であった。本年貢は現物納、小物成は金納であったが、川中島領が五〇〇〇石となってからは、本年貢・小物成とも金納になった。文政四年(一八二一)の本年貢高は、米一九九六石七斗二升三合となり、この代金として十月・十一月・十二月および翌年三月・五月・七月と六回に分けて計一八三一両永二一八文余を金納している(『県史』⑦三六〇)。また、小物成は元文元年に、元文小判で二三両であった(『県史』⑦三五九)。年貢の徴収方法は、江戸前期貞享(じょうきょう)三年(一六八六)まではおおむね検見(けみ)取りであったが、貞享四年からは定免(じょうめん)取りになり、年貢率は元禄六年(一六九三)からは五ッ三分(五三パーセント)に固定していた。五ッ三分の定免は、幕府領から再度上田領となった享保十五年以後も受けつがれた。なお、一万石領が幕府領となった享保二年から同十五年までのあいだは、前半期が検見取り、後半期は定免取りであった。