享保十五年(一七三〇)八月、前記のとおり、上田藩主松平忠愛(ただざね)は、父忠周(ただちか)の遺言にもとづき、弟忠容(ただやす)に川中島領一万石のうち五〇〇〇石を分知した。塩崎村・今井村・上氷鉋村と中氷鉋村の一部である。中氷鉋村は、上田領七七〇石三斗九合のうち一三三石四斗六合が塩崎知行所となった(表18)。大名の分知による旗本知行所の誕生である。陣屋は塩崎村に置かれたため塩崎知行所といわれ、その江戸屋敷は江戸木挽(こびき)町築地(つきじ)(東京都中央区築地)などで拝領した。なお、塩崎知行所は、寛保三年(一七四三)から宝暦六年(一七五六)までは、再度幕府領となり、そのあいだ松平氏は蔵米取りとなった。
五〇〇〇石の旗本といえば、最上級の大身旗本で、安永期(一七七二~八一)では上位の四パーセント、寛政期(一七八九~一八〇一)でも上位五パーセントに入る。信濃の旗本のなかでは、伊那郡の立石(たていし)(飯田市)知行所(近藤政敏)、同郡松島(上伊那郡箕輪町)知行所(太田彦十郎)、小県郡の祢津(ねつ)(東部町)知行所(松平永之助)と塩崎知行所の四家があった。
旗本松平氏の系譜(表19)は、初代忠容から始まって七代忠厚にいたるが、おおかたは中奥小姓・奥小姓などをつとめた。異色の領主は、三代忠明(ただあきら)と七代忠厚である。忠明は、九州豊後(ぶんご)国岡城主(大分県宇佐郡院内町)中川久貞の三男で、天明四年(一七八四)、松平家の養子となり、幕府の命で蝦夷地(えぞち)(北海道)の根室(ねむろ)から釧路(くしろ)を踏査した。また、生国豊後から藺草(いぐさ)を取りよせて領内でその移植をはかったりしたが、文化二年(一八〇五)なぜか自殺して果てた。七代忠厚は、上田本家から慶応三年(一八六七)養子に入り、塩崎村で農兵を組織したり、日新館(のち今里村の川中島小学校)をおこしたりした。明治五年、兄の旧上田藩主松平忠礼(ただなり)と渡米してやがて土木技師となり、兄帰国後もそのまま米国に踏みとどまった。やがて、かの国の女性と結婚し、各地の鉄道敷設などに活躍したが、コロラド州デンバーで三八歳の数奇な生涯を閉じた。なお、その子孫はメリーランド州に健在である。