塩崎知行所の政治

188 ~ 190

塩崎知行所の成立当初は、当主の松平善十郎忠容が幼少であったため、仕置(統治権)から取箇(とりか)(年貢徴収権)まで、すべての面にわたって、本家上田藩の一統支配にゆだねられていたが(『県史』⑦三六五)、やがて取箇は知行所にまかされた。しかし、仕置など重要案件の裁許は本家に伺いをたてていたものと思われる。そののち、塩崎村に安永三年(一七七四)陣屋がもうけられ、陣屋代官のもと領内を塩崎村の上郷(かみごう)と今井村・上氷鉋村・中氷鉋村(分け郷)の下郷とに分け、それぞれに割番を一人ずつ置き、図4のような在地支配機構を成立させた。陣屋代官には現地百姓出身のものが任命され、自宅を役所として政務を処理してきたが、特別の行事・役儀については、陣屋を使用したようである。代官には宝暦七年(一七五七)現在、上郷で塩崎村出身の清水唯右衛門と下郷で上氷鉋村出身の東福寺与平次が任命されていた。以後は清水・東福寺両家の系統のものが継承した。


図4 塩崎知行所の在地支配機構
(江戸後期)

 なお、江戸城下の旗本屋敷には、家老・用人・給人・近習をはじめ、中小姓・徒士(かち)・徒士目付・足軽同心・若党仲間(ちゅうげん)・御納戸(ごなんど)・御勝手役・料理方・御医師・坊主などがいた。

 年貢の納入方法は、知行所として統一されたものはなく、各村によってその納入方法は異なっていた。たとえば、今井村では延享(えんきょう)元年(一七四四)まではほぼ検見(けみ)取りで、年貢率は最高の貞享二年(一六八五)で四ッ九分(四九パーセント)、最低は元禄十三年(一七〇〇)で二ッ九分(二九パーセント)であったが、延享二年からは定免法であった。定免切り替え時にはかならず増し米をおこなった。その結果、延享元年以降、年貢米は五〇〇石台であったものが、寛延二年(一七四九)以降は五五〇石台へと増すが、それ以上増大することはなかった。いっぽう、塩崎村の場合は、水損・干損がたびたびあり、収穫が不安定であったため、検見取りの年が多く、年貢率は四割(四〇パーセント)から七割八分、畑で二割から三割七分のあいだであったが、文化十二年(一八一五)からはだいたい定免で、年貢米高は一一〇〇石台になっていたが、それ以上に増加することはなかった。なお、四ヵ村とも知行所発足当初から金納であった。

 これらの年貢米や雑租などで知行所の財政をまかなうことはかなりむずかしく、慢性的な赤字をまぬがれがたかった。たとえば、嘉永五年(一八五二)をみると、本年貢収入は二二〇〇両ほどで、雑収入の九六両とあわせて二二九六両となる。これにたいして単年度歳出は二二四九両であったので、四七両の黒字となった。しかし、累積赤字として江戸の町人・寺院などからの借財が七九一〇両、幕府などからの借入金が三四一六両あり、あわせて一万一三七一両もの負債があった。この莫大な財政赤字の埋めあわせの手段として考えだされたものに、年貢の増徴のほか、御用金・御無尽金・冥加銀などがあった。じっさいには年貢増徴には他領同様限界があったから、御用金などに頼らざるをえなかった。

 寛保三年(一七四三)六月から文化四年十二月までの「御用日記見出」(『堀内家文書』県立歴史館寄託)によると、六四年間に御用金など約七五〇〇両が知行所領民に課されている。これは一年間に約一一六両にものぼる金額である。その代償として、領主は御用金の拠出者に苗字・帯刀などの身分格式をあたえたが、その格式者は、塩崎村の場合、天保六年(一八三五)三八人、同十年七一人、同十五年六七人、弘化四年(一八四七)五七人、嘉永元年(一八四八)六二人、安政六年(一八五九)八三人、万延(まんえん)元年(一八六〇)一六四人と、乱発というほかない増加ぶりであった。しかし、御用金のみで財政赤字は埋められるものでもなく、領民代表が立ちいる御改革(借金整理)が数回にわたっておこなわれた。天保十五年十一月の「御借財調帳」(篠ノ井塩崎 清水政子蔵)で、領民がわは領主に「年千百両にて御暮らしなさるべく候」と申し入れ、そのうえ「村役人・百姓にて御仕法帳得(とく)と取り調べ、御世話申し上げ候」と恩着せがましく言上している。なお、宝暦十二年正月、年貢増徴につながる籾枡(もみます)量の拡大などに反対する百姓一揆(いわゆる枡騒動)が塩崎村と今井村とを中心にしておきていることをつけ加えておこう(『市誌』④一三章「支配の動揺と町・村」参照)。

 明治二年(一八六九)三月、最後の知行所の領主松平忠厚は、その領地を伊那県に引きわたす(『市誌』⑬一四八)。領民の領主への貸付金は、原則として明治政府が肩がわりしたものと思われるが、その史料はない。