元和(げんな)元年(一六一五)九月、松平忠輝(ただてる)が家康に勘当され、翌二年に改易となると、北信濃は急速に所領の変動が進展した。忠輝領跡地にはこの地方ではじめて幕府領が成立するとともに、分割されて新たに諸私領が形成され、以後変転を重ねることになる。
この所領異動のなかで、元和二年十月、佐久間大膳亮勝之(だいぜんのすけかつゆき)が長沼城に入り長沼藩が成立した。このとき同時に、勝之の兄佐久間備前守安政(やすまさ)も飯山城に入った。
佐久間勝之は兄安政とともに柴田勝家(しばたかついえ)・佐々成政(さっさなりまさ)に属し、小牧・長久手(ながくて)の戦いでは織田信雄・徳川家康にくみして秀吉と戦った。ついで関東の北条氏に仕えてまた秀吉と敵対したが、北条氏滅亡のとき、秀吉はその武勇を惜しんで会津の蒲生氏郷(がもううじさと)の付庸(ふよう)とした。氏郷亡きあとの慶長三年(一五九八)、秀吉に大坂によびもどされ、この年、長沼城をあたえられたものの、実現にいたらないうちに秀吉の他界にあい、家康によって近江(おうみ)(滋賀県)に替え地されていたものである。
元和二年十二月、二代将軍徳川秀忠が発給した領知目録によると、信濃国水内郡のうち長沼・津野・赤沼(長沼)、村山(柳原)、吉(よし)・田子(たこ)(若槻)、三才・金箱・駒沢・富竹(古里)、相之島(須坂市)、神代(かじろ)・石・南郷(みなみごう)(豊野町)、室飯(むれ)・平出・小玉(牟礼村)の一七ヵ村、一万二五一八石余、それに近江国高島郡一〇ヵ村、常陸(ひたち)国(茨城県)筑波(つくば)郡二ヵ村を合わせて一万八〇〇〇石と、長沼城を新規に宛行(あてが)われた。信濃の所領は、現在の長野市域北部の長沼周辺の村々と、北国街道沿いの豊野町・牟礼村方面の村々である。
勝之は寛永十一年(一六三四)十一月十二日、駿府(すんぷ)(静岡市)で駿府城番をつとめていたとき病死した。長男勝年は、すでに早世していたため、次男勝友(かつとも)が二代藩主をついで一万三〇〇〇石を領知し、同時に兄勝年の子勝盛(かつもり)に五〇〇〇石を分知して旗本として長沼居館に住まわせた(長沼知行所)。勝友・勝盛は翌十二年七月、将軍家光に目見えを許され、分割相続が公認された。
二代長沼藩主勝友は寛永十九年七月一日、二七歳の若さで病死し、同年閏(うるう)九月一日、八歳の長男勝豊(かつとよ)が三代藩主をついだ。そのさい、次男勝興(かつおき)に信濃・近江のうちに三〇〇〇石を分知して旗本とし、赤沼村の新館に住まわせた(赤沼知行所)。
こうして長沼領は三分割された。この時期の佐久間氏の信濃領分の村々と領知高を正確に示す史料に、正保(しょうほう)四年(一六四七)三月、幕府に提出された「信濃国郷村帳」がある(『県史』⑨一)。この前年の正保三年九月、長沼知行所の佐久間勝盛は病死し、翌四年早々、幕府は絶家を決定して所領を公収していたが、郷村帳はこのときすでに作成ずみであった。領知高に足りない分は、近江・常陸にあった。
〔長沼領〕 二二ヵ村 六四五八石
内町・津野村・上町・栗田町(長沼)、西条村・しゃり(伺去)村・真光寺村(浅川)、富竹村(古里)、田子村・吉村(若槻)、南郷村(豊野町)、平出村・室飯村・小玉村・高坂(こうさか)村・袖之山(そでのやま)村・黒川村(牟礼村)、落影(おちかげ)村・小古間村・大古間村・辻屋村・稲付(いなつけ)村(信濃町)
〔長沼知行所〕 一三ヵ村 三四九六石
六地蔵村・赤沼村(長沼)、三才村・下駒沢村(古里)、上野(うわの)村(若槻)、富竹村(分け郷)・上駒沢村(古里)、神代村・石村・南郷村(分け郷)(豊野町)、中宿(なかじゅく)村・新井村・野村上村(牟礼村)
〔赤沼知行所〕 六ヵ村 二五〇〇石
金箱村・上駒沢村・富竹村・下駒沢村(古里)、津野村(分け郷)・赤沼村(長沼)
寛文四年(一六六四)、四代将軍家綱が代替わりにさいして長沼藩主佐久間勝豊にあたえた領知目録によると、長沼領の信濃分の村々はつぎのようになっている。
〔長沼領〕 九ヵ村 五一一九石
長沼村・津野村(長沼)、三才村(古里)、吉村(若槻)、神代村之内・石村・南郷村(豊野町)、平出村・室飯村(牟礼村)
現在の信濃町・牟礼村方面の水内郡北部の村々にかわって、豊野町域の石村、長野市域の三才村などの村々が加わり、長沼に近いひとまとまりの地域に再編されていた。正保四年、長沼知行所の廃絶によりその跡地は幕府領に編入されたが、そのさい、所領の組み替えがおこなわれたようで、長沼領から所領替えになった北部の村々は幕府領になった。このとき、赤沼知行所も所領替えがあったようで、つぎにのべる寛文(かんぶん)十年の惣百姓訴状には、正保の郷村帳にはない上野(うわの)・田子(若槻)、小玉・袖之山(牟礼村)の村名が出てくる。また、三〇〇〇石のうち赤沼村付きは一七〇〇石余で、残り一二〇〇石余は近江国高島にあるという。
寛文四年五月、赤沼知行所の初代勝興が死去した。勝興には子がなかったので、長沼二代藩主勝友の弟で旗本となっていた勝種の次男盛遠(もりとお)が、養子となって跡をついだ。盛遠は幼年であったため、実質は父勝種(かつたね)が執政にあたったが、寛文十年、惣百姓はその苛政(かせい)を幕府に訴えでた。訴状には、高免・高役をかけられて百姓は立ちゆかないとして、一七ヵ条にわたる治政の非道が列挙されている(『県史』⑦六四八)。この越訴(おっそ)の結末は不明であるが、天和(てんな)二年(一六八二)八月、勝種は罪を問われることがあり改易(かいえき)、遠流(おんる)の刑に処せられ、これに連座して盛遠も改易されることになった。先の惣百姓越訴の件もその遠因となったのであろう。
本家長沼藩も、まもなく廃絶の憂き目(うきめ)をみることになる。貞享二年(一六八五)八月、三代藩主勝豊が死去した。十月には、養子勝茲(かつちか)が一五歳で四代藩主となり、十一月、将軍綱吉に目見えをはたし遺領の継承を謝した。ところが貞享五年(元禄元年、一六八八)五月十四日、勝茲は綱吉の御側小姓となるが、翌日綱吉の気にさわるもの言いがあったとして逼塞(ひっそく)を命じられた。十八日には病と称して辞意を申しでたことがさらに綱吉の不興をかい、改易を申しわたされた。ただちに城地は飯山藩主松平忠倶(ただとも)に受け取りが命じられ、五月二十八日明けわたされた。旧領跡地は幕府領に編入され、高井郡新野(しんの)陣屋(中野市)代官に引きわたされた。こうして、佐久間氏四代、七三年間にわたる長沼領の治政はあわただしく幕を閉じ、長沼城は破却された。