松平義行領

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天和元年(一六八一)八月、尾張藩二代藩主徳川光友の子松平摂津守義行(せっつのかみよしゆき)が大名に取りたてられ、北信の水内・高井両郡と南信の伊那郡に一万五〇〇〇石ずつ、あわせて三万石を給された。南信は伊那郡竹佐(たけさ)村(飯田市)、北信は高井郡新野(しんの)村(中野市)に陣屋を置き支配した。北信の領地はつぎの村々である(『高藩紀事』徳川林政史研究所蔵)。

〔高井郡〕 夜間瀬村・同枝郷(宇木・須加川(すがかわ)・横倉・前坂)・横倉村・戸狩村・菅(すげ)村・寒沢(さむさわ)村・上条村(山ノ内町)、新野(しんの)村・高遠村・更科村・小田中(こだなか)村・新保(しんぼ)村・北大熊村・篠井(しのい)村・間山(まやま)村・越村(中野市)、井上村(須坂市)  一六ヵ村  九一一〇石九斗五合

〔水内郡〕 西条村(若槻)、富竹村・富竹新田・上駒沢・下駒沢村・金箱村(古里)、栗田村・千田村・荒木村(芹田)、権堂村(権堂町)、問御所村(問御所町)、中御所村(中御所) 一二ヵ村 四八六九石一斗九升三合

 水内・高井両郡あわせて一万四〇〇〇石ほどで、拝領高一万五〇〇〇石には足りなかった。

 元禄二年(一六八九)、下駒沢村で検地がおこなわれた。信濃領分奉行岡崎儀右衛門代の太田吉兵衛ら四人、竿(さお)取り横江伊兵衛ら四人による地詰検地で、村内六人の百姓が案内した(『県史』⑦六二四~六二六)。これにより、それまでの村高三八八石三升一合が四一九石六斗八合となり、三一石五斗七升七合が打ちだされた。下駒沢村は同十五年の「信濃国郷帳」では旧高のままだが、天保(てんぽう)五年(一八三四)の郷帳では四二一石一斗とされて、この検地高に近くなっている。他の村々でも検地がおこなわれたのかどうかは確認されていない。

 元禄十三年三月、北信分の領地は美濃国海西(かいさい)・石津両郡に替え地され、北信領はもとの幕府領にもどされた。美濃高須(たかす)(岐阜県海津郡海津町)に藩庁が置かれ、伊那分の領地とあわせて高須領となり、幕末までつづいた。