椎谷領

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一七世紀から一八世紀はじめにかけてめまぐるしく変転を重ねた北信濃の諸領は、享保九年(一七二四)の飯山領の所領替えを最後に安定期に入った。その七〇年後の寛政四年(一七九二)八月、越後国椎谷(しいや)に陣屋のある堀式部少輔著朝(あきとも)が、一万石のうち五〇〇〇石分を越後から水内・高井両郡内に替え地されて、北信濃に椎谷領が成立した。高井郡六川(ろくがわ)村(小布施町)に陣屋を置いて信濃領分を支配し、幕末までつづいた。天保五年(一八三四)の信濃国郷帳によると、支配村々はつぎの一一ヵ村である。

〔高井郡〕 奥山田村・中山田村(高山村)、中条村(松代藩預かり所と分け郷)・中子塚(ちゅうしづか)村・六川村・羽場村・清水村(小布施町)、北大熊村・草間村(中野市)

〔水内郡〕 中之御所村(松代領と分け郷、中御所)、問御所村(問御所町)


写真15 椎谷藩六川陣屋跡
(上高井郡小布施町六川)

 寛政四年十月の問御所村の年貢割付状によると、本年貢は高一八八石二斗二升三合のところ取米一二一石五斗二升五合、この免率は六ッ四分五厘となる。ほかに酒造役永・油絞り運上・水車運上と、御伝馬宿入用・六尺給米・御蔵前入用の高掛(たかがかり)三役が割りつけられている。幕府領時代の前年寛政三年に五ヵ年定免とされており、この幕府領時代の年貢割付をそのまま踏襲(とうしゅう)している。問御所村は年内に完納し、代官渡辺文左衛門は同年十二月、皆済目録を発行した。金一両につき一石三斗九升替えで、すべて金納であった。ほかに永七五文余の包分銀(つつみぶぎん)を納めた。

 寛政五年、陣屋元六川村の寺島善兵衛は大庄屋役を申しつけられた。以後、同家は代々大庄屋役を世襲し、信濃領分一一ヵ村の支配を取りしきった。弘化四年(一八四七)三月二十四日の善光寺地震で、御開帳でにぎわう善光寺町では各所で火の手があがり、町続き地の椎谷領問御所村にも火の勢いはせまった。急を聞いて六川村から夜を徹して駆けつけた寺島善兵衛は、翌二十五日早朝、隣接する善光寺領後町(東後町)と松代藩預り領権堂村(権堂町)の居家を自己の責任で取りつぶして類焼を防いだ。

 嘉永元年(一八四八)、藩は日本近海に出没する外国船の来襲に備え海防を整えるため、領内村々に献金を求めた。問御所村の豪農久保田新兵衛は個人で献金に応じ、藩から御定紋付き上下(かみしも)をあたえられ苗字(みょうじ)・帯刀を許された。同家は元治(げんじ)元年(一八六四)七月、武器を献上したことで代々大庄屋を申しつけられた。善光寺町続き地の問御所村で穀物・塩・油・木綿などを手びろくあきなう久保田家は、幕末には藩の御用達をつとめ、たび重なる御用金の要請に応じて、困窮をきわめる藩財政を支えた。