石見浜田領

203 ~ 205

北信に椎谷領が成立した同じ寛政四年、石見(いわみ)国浜田(島根県浜田市)領松平周防守康定(すおうのかみやすさだ)の飛び領地が、高井・水内両郡内に成立した。以後文政五年(一八二二)までの三一年間と、文政十年から天保七年(一八三六)にかけての一〇年間、北信に領地をもち、水内郡富竹村(古里)に陣屋を置いて支配した。

 寛政四年の所領替えの経緯は、松代藩の「勘定所元〆日記」(『松代真田家文書』国立史料館蔵)に記録された浜田松平氏家臣から松代藩にあてられた書状によって知ることができる。

 四月二十四日、幕府老中松平定信から所領替えを告げられた松平康定の家臣は、翌二十五日、さっそく松代藩主真田幸弘の江戸留守居中にあて、書状を送った。領知高五万四〇〇〇石の浜田松平氏は天明五年(一七八五)、石見(島根県)・三河(愛知県)・伊豆(静岡県)三国に一万石を加増され、翌年その一部は相模(さがみ)国(神奈川県)に替え地されていた。この加増分一万石について、三河国の松平氏先祖墓所の地約六〇〇石を残して、九三〇〇石余を信濃国に替え地されたと報じている。浜田藩の現地「支配役」に任じられた西田砂左衛門は、八月十二日、松代藩地方(じかた)役人にあてて書状を送った。それによると、七月には水内・高井両郡内の所領村々がきまり、中之条代官から引き渡しをうけ、富竹村(古里)に在勤しているという。のちの十二月十三日に松代藩郡奉行にあてた書状により、浜田領に属することになった村が判明する。

〔水内郡〕 富竹村・金箱村(古里)、上町・栗田町・六地蔵町・津野村(幕府領と分け郷)(長沼)、荒木村・千田村(松代領と分け郷)(芹田)、中宿(なかじゅく)村・新井村・黒川村・裏村(牟礼村)

〔高井郡〕 高井野村・同所新田・牧村・同所新田・駒場(こまんば)村・同所新田(高山村)、矢島村・雁田村(小布施町)

 幕府領の村々を割いて創設したもので、水内郡北部の村々は、かつて長沼領に属していた地域である。「天保郷帳」の村高合計から津野村と千田村の分け郷分を引くと、九五〇〇石近くなる。幕府領と半々に分割されることになった津野村が、分け郷の引き分け方を取りきめたのは、翌寛政五年正月の初寄り合いの席上であった(『県史』⑦一四二〇)。千田村はもともと松代領と幕府領の分け郷であって、幕府領の分が浜田領となった。

 先の八月十二日付けの書状によると、富竹代官として着任した西田砂左衛門は、「さっそく領分となった村々を回村したところ、松代領分の村々とは村つづきで接しており、双方にかかわる普請所も多いので、よろしく心添えを願いたい。松代領の吉田村(吉田)と仁礼村・福島村(須坂市)の口留(くちどめ)番所は、幕府領時代以来鑑札によって年貢米・諸荷物を通していたと聞いている。これまで同様に取りはからってほしい」としている。松代藩勘定所元〆大島多吉・徳嵩(とくたけ)甚蔵は調査のうえ、「吉田村番所は水内・高井郡の御料・私領村々から善光寺町へ売りさばく穀物・諸荷物を付けとおしているので、私領は地方(じかた)掛かり役人の印鑑を持参すれば通行させる。高井郡の村々が通行する仁礼村番所も同様に対応する。福島村には番所はない」と返書を送った。富竹代官西田砂左衛門は、自身の印鑑を押した二枚の印鑑書を、吉田・仁礼両村口留め番所役人に渡してほしいと、松代藩勘定奉行に送った。


写真16 浜田藩富竹陣屋長屋門 (古里)

 千田村には同年十月一日、年貢割付状が掛り役人木村辰右衛門・一瀬滝左衛門から交付された。村高二五五石二升五合のところ取米一二一石五斗九升三合、免率四ッ七分六厘、ほかに水車運上と、御伝馬宿入用・六尺給米・御蔵前入用の高掛(たかがかり)三役が課せられた。免率は酉(とり)年(寛政元年)から午(うま)年までの一〇ヵ年定免である。幕府領時代の年貢割付けをそのまま踏襲したものである。翌五年五月、代官西田砂左衛門の年貢皆済状が発行された(『県史』⑦六七二・六七四)。十二月には富竹村に役所を建てて入居した。富竹村名主の一人が割本(わりもと)をつとめ、領内村々を取りまとめた。

 文政五年、浜田松平氏の信濃領分のうち五〇〇〇石余が松代御預り所となったものの、文政十年十一月、千田村など水内郡二四七六石余が浜田領にもどる。さらに天保六年、旧領三二六七石余も浜田領に復活した。ところがまもなく石見浜田領内の廻船問屋の密貿易が発覚したことにより松平氏は幕府の処分をうけ、翌天保七年三月、浜田から奥州棚倉(たなぐら)(福島県東白川郡棚倉町)に移封となった。そのさい、莫大な所領替え入用に差しつかえ、領内村々から年貢金を五ヵ年賦、金利一割で先納させた(『県史』⑦六八〇)。しかし翌八年、信濃分の領地は消滅してしまい、その所領村々は幕府領にもどり、中之条代官所の支配となった。