北信の幕府領

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元和二年(一六一六)七月、北信四郡を支配していた松平忠輝の改易(かいえき)あとに、さきにみた長沼・飯山・須坂領のほか、松代領をはじめ多くの大名・旗本領があいついで成立した。これら諸私領を除いた一万数千石に、幕府直轄領が生まれ、高井郡高井野村(高山村)などに陣屋を置いて代官松平清左衛門らが支配した。その後は、幕府領を割いては創設される大小諸私領の消長により幕府領は増減を繰りかえし、享保期まで流動する。

 元和二年から八年に「信州川中島高井郡内」に一万石をあたえられた岩城貞隆(いわきさだたか)・吉隆(よしたか)領の所在地は、従来、更級郡川中島説と、高井郡のうち高社山(こうしゃさん)以北の岳北(がくほく)説の二説があったが、近年の研究で、高井郡岳北にあったことが明らかとなった。元和五年、幕府の外様大名取りつぶし策にあって安芸(あき)広島(広島市)四九万石余を改易された福島正則(まさのり)は、高井郡二万石・越後二万五〇〇〇石を給されて、高井郡高井野村(高山村)に居を構えた。寛永元年(一六二四)に正則は病死し、遺領のうち三〇〇〇石のみを給された四男正利(まさとし)が寛永十四年に没すると、福島氏は断絶した。このほか、高井郡には一七世紀はじめの短期間に、つぎつぎに旗本知行所が出現しては消滅した。慶長十九年(一六一四)に小笠原忠知(ただとも)領五〇〇〇石が創設され、寛永八年まで存続する。慶長十五年に近藤政成(まさなり)領五〇〇〇石、元和二年に井上庸名(もちな)領五〇〇〇石が成立し、ともに元和五年に伊那郡に移る。元和四年には河野氏勝(うじかつ)が一五〇〇石で入り中野村(中野市)と相之島村(須坂市)を知行した。河野氏は氏利(うじとし)、氏朝(うじとも)とつづき、慶安三年(一六五〇)に去る。中野村に置かれた河野氏陣屋は、以後、幕府領陣屋として引きつがれ、幕末にいたる。

 埴科郡にも寛永元年、坂木(坂城町)に徳川一門、越後高田松平光長(みつなが)領の飛び地五一九〇石の代官陣屋が置かれ、天和元年(一六八一)に改易されるまでつづいた。さらに、天和二年、幕府の要職にあった板倉重種(しげたね)が失態をとがめられて免職となり、埴科・高井・水内・佐久・小県郡と上総(かずさ)(千葉県)・三河(みかわ)(愛知県)に五万石をあたえられ、高田松平氏あとの坂木に蟄居(ちっきょ)した。翌三年、重種は隠棲(いんせい)し、長男重寛(しげひろ)に三万石、甥重宣(しげのぶ)に二万石が分給された。

 寛文元年(一六六一)、甲府城主となった三代将軍家光の二男綱重(つなしげ)は一〇万石を加増され二五万石となった。所領は甲斐・信濃など五ヵ国にわたり、信濃ではそれまでの佐久郡に加えて、小県・高井両郡の村々が給された。ついで天和元年、高井・水内両郡内に松平義行領が創設される。

 甲府徳川領・松平義行領・坂木板倉領の三領地の創設によって一時、北信の幕府領はほぼ消滅した。ところがそれから間もない元禄元年(一六八八)、前述したように長沼領が改易となり、旧領は幕府領に組みいれられた。つづいて、右の三領地も元禄十二年から十五年にかけてあいついで消滅し、幕府直轄にもどされた。こうして高井・水内・埴科三郡に広大な幕府領が生まれ、北信幕府領の大枠が固まった。高井・水内両郡の幕府領は享保九年(一七二四)に飯山領との替え地があったあとは、寛政四年(一七九二)、その一部を越後椎谷(しいや)領・石見(いわみ)浜田領に割くなど若干の異動はあったものの、幕末までつづいた。

 各所に私領時代の陣屋を引きついだ幕府は代官陣屋を置き、代官による支配が本格化した。ことに私領の創設と消滅が多かった高井郡には複数の代官がかかわり、中野村をはじめ高井野村(高山村)、西条村・新野(しんの)村(中野市)、小布施村(小布施町)など、数多くの陣屋が置かれた。長野市域の水内郡にも、元禄二年長沼城下あとに六地蔵陣屋(長沼)が置かれ、旧長沼領から幕府領にかわった村々を管轄して宝永四年(一七〇七)まで存続した。代官は太田作之進・高谷(こうや)太兵衛がつとめた。これらの陣屋は享保期ころまでに統廃合され、おおむね、北信地方の北半は旗本河野氏陣屋を受けついだ中野陣屋(中野市)、南半は東信の幕府領とともに元禄十六年板倉氏転封のあとを引きついだ坂木陣屋(坂城町)の支配となる。小布施・西条・新野陣屋は中野陣屋に吸収された。坂木陣屋が明和四年(一七六七)に建物を焼失してからは、中之条陣屋に移り、幕末にいたる。この間、元禄十三年に所領替えとなった松平義行領時代の権堂陣屋は、元文(一七三六~四一)から寛延(一七四八~五一)ころにかけて坂木陣屋の出張(でばり)陣屋として、現地の支配にあたった。寛延四年(一七五一)に権堂陣屋が焼失してからは富竹陣屋に移り、坂木陣屋や越後新井陣屋(新潟県新井市)の出張陣屋として、その機能をはたした。宝暦十三年富竹陣屋は廃止となり、あらたに西条村(浅川)に陣屋が設けられ、飯島陣屋(上伊那郡飯島町)の出張陣屋として明和五年までつづいた。


写真17 中野陣屋跡 (中野市中央)


写真18 中之条陣屋跡 (埴科郡坂城町)

 信濃国の幕府領は、正保四年(一六四七)の信濃国郷村高帳によると、国高五七万八〇〇〇石余のうちの六万石余で、一〇・三パーセントであった。これが幕府領の安定期に入る一七世紀末から一八世紀にかけて増大し、一九世紀半ばの幕末にかけて多少の増減を繰りかえしながらも、約二〇万石、信濃国高のほぼ三分の一を占めていた。このうち水内郡の幕府領は、中・後期は天保郷帳の総高一〇万八五四二石のところ二万石前後、ほぼ五分の一であったが、幕末にはその多くが松代御預り所に移管された。