長野市域の幕府領

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正保(しょうほう)四年(一六四七)・元禄十五年(一七〇二)・天保(てんぽう)五年(一八三四)の信濃国郷村帳と、明治初年の「旧高旧領取り調べ帳」によると、市域の幕府領は表21のようである。


表21 市域の幕府領村々

 正保四年の郷帳では、幕府領は善光寺町に隣接する中御所村(中御所)、問御所村(問御所町)、新(荒)木村・栗田村・千田村(芹田)、権堂村(権堂町)の六ヵ村、二〇〇〇石余で、元和二年(一六一六)の北信の幕府領創設時と、同八年、真田氏の松代入封時に始まった。天和二年(一六八二)・元禄元年の赤沼・長沼佐久間氏改易のあとは、市域北部の旧長沼領の一九ヵ村、一万六〇〇石余が加わる。これらの村々が市域の幕府領で、私領の創設と消滅によって出入りをしつつ、おおむね幕末までつづく。

 更級郡では宝永三年(一七〇六)、上田藩主仙石政明(まさあきら)にかわって松平忠周(ただちか)が但馬出石(たじまいずし)(兵庫県)から入封したさい、今里村(川中島町)の村高一一四五石余のうちわずか八九石が分け郷とされ幕府領となった。さらに、享保二年(一七一七)十二月、上田藩主松平忠周が京都所司代に就任したさい、川中島一万石の替え地を近江(滋賀県)にもらい、稲荷山(いなりやま)村(更埴市)、塩崎村・岡田村(篠ノ井)、今里村・上氷鉋(かみひがの)村・戸部村・今井村(川中島町)と中氷鉋村(更北稲里町)の川中島八ヵ村は、一三年間にわたって幕府領支配となる。同十五年五月、忠周の子松平忠愛(ただざね)が近江の所領を川中島にもどされると、川中島の幕府領はふたたび今里村の八九石を残すのみとなった。つづいて同年八月、塩崎村・上氷鉋村・中氷鉋村(分け郷)・今井村の四ヵ村は忠愛の弟松平忠容(ただやす)に分知された(塩崎知行所)。忠容は寛保三年(一七四三)、蔵米(くらまい)取りとなり知行所四ヵ村は幕府領に編入されたが、宝暦六年(一七五六)には知行所が復活する。

 これらの幕府領村々の支配代官は、村によってまた時代によってさまざまだが、中期以降はおおむね坂木・中之条代官と中野代官の支配をうけた。栗田村(芹田)と長沼上町(長沼)の場合(表22・23)を中心にみてみよう。


表22 水内郡栗田村の支配代官変遷


表23 水内郡長沼上町の支配代官変遷

 栗田村は戸隠山神領の分を除いて元和二年から幕府領となる。正保四年の郷村帳では西条陣屋(中野市)の「御蔵納め御代官設楽(しだら)源右衛門・近山五郎右衛門」の支配である。南信の伊那地方の幕府領では、近世初期には中世の在地領主の系譜をひく旗本が幕府領を預かっているのにたいして、北信の幕府領では、当初から官僚型の代官が支配にあたっていた。寛文・延宝期(一六六一~八一)には長期にわたって、設楽孫兵衛・天羽(あもう)七右衛門の両代官が北信の幕府領を支配した。設楽孫兵衛は西条陣屋、天羽七右衛門は中野陣屋にいて、地域を分けて支配実務にあたっていた。栗田村は設楽孫兵衛の所轄であった。

 寛文五年(一六六五)から延宝八年(一六八〇)にかけて、北信の幕府領では総検地を実施する。全国幕府領検地の一環をなすもので、慶長五年の森忠政以来の再検地である。このような大きな仕事には、代官設楽孫兵衛・天羽七右衛門は「相(あい)代官」として共同であたった。このとき作成された検地帳は、手直しを加えながらも、幕末まで用いられることになる。水内郡御料村・小古間村(信濃町)、野村上村・夏川村・横手村・新井村(牟礼村)、西条村(浅川)には、延宝八年の検地帳がのこされている。これらの水内郡北部幕府領村々の検地は、一五年にもおよぶ幕府検地の最後であった。栗田村・権堂村など水内郡南部の村々の検地実施年はわからない。

 元禄十三年、栗田村は松平義行領から幕府領に復帰すると、松平義行が残した新野陣屋(中野市)に入った長谷川庄兵衛の管轄となる。元禄十六年からは坂木陣屋代官の所轄となり、以後はおおむね坂木と中野代官所代官が交互につづく。享保九年から二十年にかけての代官松平九郎左衛門は、中野・坂木代官を兼務したばかりか信濃一国の幕府領を一円支配した。以後、遠州(静岡県)、越後新井や飯島、塩尻(塩尻市)、御影(みかげ)(小諸市)など、国内外の遠隔地代官の預かり支配をはさんで中野・坂木代官支配が交互につづく。安永八年(一七七九)、中之条陣屋が創設されると、翌九年中之条代官の支配に移り、以降は、文政十一年(一八二八)に権堂村、津野村(長沼)、中尾村(豊野町)とともに一時中野代官支配に移管されるものの、中之条代官支配が長かった。天保二年に松代御預り所となり、同十四年に一時、天保改革で幕府直轄となるが、改革が挫折すると翌十五年には御預り所にもどり、幕末までつづく。

 元和二年から幕府領となった権堂村も、栗田村とほぼ同じ経過をたどる。元和八年の真田氏松代入封のさい幕府領となった千田村分け郷分は、天和元年に松平義行領となるなど一八世紀末まで栗田村と同様の経過をたどるが、寛政四年(一七九二)からの浜田松平氏支配が中断した文政五年から同十年は、松代御預り所となり、天保七年に浜田松平氏が所領替えになったあとは中之条代官支配がつづく。幕末の慶応二年(一八六六)になって松代御預り所となる。千田村と同じく元和八年に幕府領となった荒木村(芹田)も、浜田松平氏支配のあとは中之条代官所、慶応二年から松代御預り所となる。

 いっぽう、元禄元年、長沼領佐久間氏の改易にともない幕府領に組みいれられた長沼上町は、受け取り代官新野陣屋の滝野十右衛門から、翌二年に新たにもうけられた六地蔵陣屋代官の支配をへて、宝永四年、六地蔵陣屋の廃止にともない坂木陣屋に移管となる。以後は南部の栗田村などと同様に遠隔地代官の預かり支配をはさんで中野・坂木そして中之条代官所支配が錯綜(さくそう)する。寛政四年からの石見(いわみ)浜田領支配が中断した文政五年から文政十年、または天保七年までは松代御預り所となるが、浜田松平氏の陸奥棚倉(福島県棚倉町)転封後は、千田村と同様に中之条代官所支配がつづき、慶応二年になって松代御預り所となった。

 旧長沼領村々の支配代官の変遷は一様ではなかった。明和四年(一七六七)、長沼上町、下駒沢・金箱・富竹(古里)の村々は南部の栗田村などと同様に中野代官所支配であるのに、上駒沢・三才(古里)・上野(うわの)(若槻)・西条・真光寺(浅川)などの山付き村々は嶋隼人飯島代官預かり、同五年、越後高田藩榊原(さかきばら)氏の一時預かりをへて、同七年には竹垣庄蔵越後川浦(新潟県中頸城郡三和村)代官の預かりとなっている。しかし、安永八年に中之条陣屋が本格的に創設されると旧長沼領村々は順次、中之条代官支配に一元化されていく。その後寛政四年に石見浜田領が設置されると、長沼・赤沼・津野三村(長沼)の支配も一様ではなくなる。天保十四年、旧浜田領の上町・栗田町・六地蔵町・津野村新料は中之条代官石井勝之進、通して幕府領であった津野村古料は松代御預り所、内町・赤沼村・赤沼河原新田は中野代官森親之助の所轄に分かれている(『長沼村史』)。この年の天保改革以後は、水内郡北部の村々は一様に中之条代官の管轄となった。

 宝永三年、上田領から幕府領にかわった今里村分け郷は、佐久郡高野町陣屋(南佐久郡佐久町)・高井郡新野陣屋(中野市)などを管轄していた幕府代官市川孫右衛門の手代が受けとり、村分けがおこなわれ、新田分も合わせて八九石余、円城寺をふくめ一〇人の百姓持高が名寄せされた。増田太兵衛代官の支配をへて、坂木、中之条代官所の所轄に入り、幕末を迎える。

 享保二年十二月、上田領から幕府領にかわった川中島八ヵ村は、新野陣屋増田太兵衛と坂木陣屋都筑(つづき)藤十郎が受けとり、さっそく両代官の手代が当面の支配方と、この年の年貢を収納して江戸屋敷へ持参するよう申しつけた。年貢仕法も他の信州幕府領と同様に三分の一金納・三分の二金納とされ、享保十年、信州幕府領一円に年貢定免制が始まると、川中島八ヵ村でも実施された。増田太兵衛代官の所轄から坂木代官所の支配に入った。同九年信濃一円代官松平九郎左衛門の支配となり、十五年には上田領にもどった。