幕府領は、幕府勘定奉行直属の郡代・代官による支配がその中心をなしていたことはいうまでもないが、近隣の大名に預けて支配させることもあった。藩の担当役人が支配し、年貢・小物成を幕府領と同様に取りたて、幕庫に納めた。幕府にとっては支配経費の節減になる。いっぽう、藩にとっても口米(付加税)が藩の収入となり、預かり地の領民に御用金などを課すことができるなどの実利が大きかった。また支配領域の広域化は治安維持にも有効であって、全国的に近世後半に増える。
高井・水内両郡の幕府領では文政三年(一八二〇)、高井郡三〇〇〇石が松代御預り所となったのを皮切りに、文政五年に浜田領の飛び領地から一時幕府領にもどった村も松代御預り所となる。浜田領の復活と消滅をはさんで、これらの村々は天保七年(一八三六)、幕府直轄にもどるが、以降、幕末にかけて松代御預り所は拡大する。
これらは松代藩主幸専(ゆきたか)・幸貫(ゆきつら)の御預かり地設定の願い出によるもので、幕府領と松代領が混雑していて治安対策のうえからも水利・治水の面でも円滑な処置ができないという理由による(『県史』⑦六〇)。天保二年、栗田村・権堂村・津野村(古料)、中尾村(豊野町)の二五〇〇石、松代領との錯綜(さくそう)地が新たに松代御預り所となった。同十四年、幕府の天保改革で全村が一時幕府直轄となるが、翌十五年にはもどる。
松代藩は御預り役所を設置し、御預り所掛・御預り所御勘定役・御預り所御郡(こおり)奉行・御預り所元〆(もとじめ)役・御預り所御用掛の諸役を置き、年貢収納と公事出入りなどの取り扱いにあたった。安政四年(一八五七)十一月、水内郡権堂・栗田・津野古料・中尾の四ヵ村と高井郡幸高(こうたか)村(須坂市)など一二ヵ村の松代御預り所村々が、幕府勘定所あてに中之条代官所支配への支配替えを門訴(もんそ)している。御預り役所の役人が私利私欲に走り、御預り所村々は不当に扱われているというものであった(『豊野町誌』⑥六〇)。
慶応二年(一八六六)三月、さらに荒木・千田・富竹・金箱・上駒沢・下駒沢・三才・上町・栗田町・六地蔵・津野新料の一一ヵ村が松代御預り所となる。慶応元年十二月に支配替えが申しわたされると、一一ヵ村は翌二年正月ただちに、これまでどおりの代官所支配を願いでた(『千田連絡会文書』長野市博寄託)。水利で上流の松代領村々と競合するなど不都合が多々あるし、飯山領と分け郷になっている三才村では、溜池(ためいけ)用水を共用する飯山領の村にたいして御料所の威光がきかないという。三月に御預り所に支配替えとなってからも、同年三月、同じ時期に支配替えとなった水内郡北部の新井・牟礼・中宿(牟礼村)など二八ヵ村とあわせて四一ヵ村が、中野代官所支配への復帰を願っている。私領同様の取り扱いにたいして、強い抵抗があった。
明治元年(一八六八)の松代御預り高は、松代藩拝領高一〇万石の四分の一に近い二万四〇〇〇石に達していた。