幕府領の支配

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全国四〇〇万石におよぶ幕府直轄領からの年貢収入が、幕府を支える経済基盤であって、その在地支配にあたったのが、勘定奉行所に属した代官である。代官には下級旗本が任用され、幕府官僚のなかではあまり高い地位にはなかったが、支配地の年貢収納から河川・用水の管理・修復、民政全般にあたり、幕府財政にも影響をおよぼす重要な役割をになっていた。

 初期の代官は中世末の在地領主の系譜をひいた給人型が多く請負人的性格が強かったが、五代将軍綱吉の天和・貞享年間(一六八一~八八)、つづいて六代家宣(いえのぶ)時代に幕府に登用された儒学者新井白石によって、地元との癒着をおこしやすい在地性の強い代官の綱紀粛清(こうきしゅくせい)がはかられ、有能な官僚的代官にかえられていった。さらに八代将軍吉宗の享保改革でも、幕府財政立て直し策の一環として、代官所機構の整備・改革がはかられた。在地の行政組織が確立するにともない、行政手腕にたけた有能な人材をひろく代官に登用するとともに、享保十年(一七二五)代官所経費を、それまで年貢の口米でまかなっていたのを廃止して、支配高・地域に応じて幕府が支給する方法にかえて、代官の不正・腐敗の防止をはかった。このように、代官は一地方行政官僚として位置づけられることになり、先に栗田村・長沼上町の例でみたように、ひんぱんに支配代官の異動がおこなわれるようになった。

 代官所の支配は、元締(もとじめ)・手付(てづけ)(寛政以降)・手代(てだい)・書役(かきやく)などの下役人が、江戸詰めと陣屋詰めに分かれて所務にあたった。通常、代官は江戸役所にいて、検見(けみ)のときだけ現地陣屋に入った。陣屋には手付・手代のなかから選任された元締が常駐して、代官にかわって民政全般を統括した。元締の下に手付・手代が数人いて、公事方(くじかた)(治安・訴訟)と地方(じかた)(租税・土木・人別ほか)の仕事を分担した。手代は幕臣ではなく代官に私的に任用されたもので、初期にはその土地の事情に明るく農政にたけた百姓のなかから登用されることもあった。手付は寛政改革で新設されたもので、生活窮迫の救済策として下級幕臣の御家人(ごけにん)から任用された。

 これら代官所役人の数は、それほど多くはない。中之条代官所の場合、文化元年(一八〇四)から同六年まで在任した代官恩田新八郎の属僚は、中之条陣屋に元締・手付・手代・書役など九人、江戸役所に二人、都合一一人ほどにすぎず、これで高井・水内・埴科・小県・佐久五郡にわたる一二七ヵ村、五万一〇〇〇石余を支配した。天保年間以降でも、手代以上の役人は中之条陣屋詰め三~五人、御影出張(でばり)陣屋詰め三~五人、中之条代官所管轄の追分(北佐久郡軽井沢町)貫目改め所詰め一人、江戸詰め五~一〇人で、都合一二~二〇人ほどであって、このなかで時おり人事交流がおこなわれた。

 しかしこの人数では、広域でしかも散在する所領を支配することはできない。そこで、代官所と在地領民とのあいだにあってこの代官所機構の手薄さをおぎなう下部機構が必要となる。代官所と村々名主とのあいだを取りつぎ、陣屋や牢屋(ろうや)の維持・管理、支配下全村の共通の負担となる郡中入用の取りまとめにあたる郡中代(ぐんちゅうだい)と、公事(訴訟)の仲介に入った郷宿(ごうやど)である。中之条代官所の郡中代は、天明年間(一七八一~八九)には割場(わりば)とよばれ、地元中之条村の名主二人のうちの一人が兼帯した。寛政年間(一七八九~一八〇一)に郡中代と呼称をかえ、文政三年(一八二〇)からは専任となり、原則として任期二年、給金一〇両で、支配下村々の名主全員によって選任された。嘉永三年(一八五〇)以降は複数の郡中代が置かれた。中野代官所では、安永六年(一七七七)の中野騒動以降は、それまで中野村名主が兼ねていた割元役を郡中代として独立させ、「郡中代役家(やくけ)」五軒のなかから、単独あるいは複数でつとめるようになった。両代官所とも、郡中代は手付・手代の指示によって代官所の末端事務を遂行した。郷宿は、もともとは陣屋元で村方から代官所へ出張してきたものを止宿させ、訴訟事務を取りあつかっていたが、寛政期からは訴訟の仲介にもあたるようになった。

 さらに、近世後期になり農民の貧富の差がひろがり、村方騒動が頻発し、悪党とよばれた無宿ものが横行するようになると、村・領域をこえた広域にわたる支配機構が必要となった。

 寛政十年、幕府は「百姓風俗取り締まりのため、村役人、身元宜しきもののうちから、これを取りはからうものを選ぶように」と触れた。これをうけて中之条・中野両代官所でも、数ヵ村、あるいは十数ヵ村で編成される組合村を管轄範囲とし、近郷に名の知れた豪農のうちから、博打(ばくち)の取り締まりなど治安維持にあたる「取締役」が選任される。また、文化十三年には、「信濃国悪党取締出役(しゅつやく)制」がしかれる。信濃国中之条・中野・飯島(上伊那郡飯島町)・御影(小諸市)の四代官のうちの一人が「信濃一国総取締(そうとりしまり)」に任命され、四代官所から出された二人一組八人の手付・手代を指揮下に置き、領域をこえて、私領にまで立ちいって悪党の取り締まりにあたった。信濃一国総取締に最初に任命されたのが、中之条代官の男谷(おたに)彦四郎で、これ以前の文化十一年六月に代官として赴任以来五年間、みずから願いでて中之条陣屋に在陣し、信濃国全域におよぶ取り締まり体制の強化にあたった(『牧民金鑑』)。

 中之条代官所では、享和元年(一八〇一)、信濃国で最初の取締役が置かれるが、文化十四年、前年に信濃一国総取締となった男谷代官は、二六人の取締役を再任命し、そのさい、御用提灯を預け、勤役中は野羽織の着用を許し、取締役体制の強化をはかった。水内郡では栗田村一人、権堂村二人、下駒沢村一人、赤沼河原新田一人の五人が任命された。文政四年にも新規と再任の取締役二九人が請書(うけしょ)を差しだした。その任務は、①博奕(ばくち)・賭(かけ)の諸勝負事の取り締まり、②宿駅・往還村の取り締まり、③吉凶のさいは手軽にして華美にならないように、村内上下和融を心付けることの三点で(『県史』⑦五七四)、御用提灯を私用に使ったり、役筋の権威を振りかざすことのないようにいましめている。①②の悪党と無宿ものの取り締まりのほか、③はほんらいは村役人のしごとであった。

 文政八年、中之条代官荒井平兵衛は管内で関東取締出役の摘発をうけ、取締役の制し方が不届きであるとして管下六郡の取締役・村役人に命じて取り締まり趣法(しゅほう)を差しださせた。栗田村は小前一同が連印してその趣法の請書を差しだした(『市誌』⑬一六〇)。取締役制は、天保改革期にさらに強化され、その活動は活発となった。中野代官所では取締役の頭として「郡中取締役」が二人任命された。弘化三年(一八四六)・嘉永五年には、天保八年(一八三七)に浜田領から幕府領中之条代官所所轄となった金箱村・上駒沢村から各一人、取締役が選任されている。いっぽう、松代御預り所となった村々でも、取締役制は維持された。

 文化十一年、中之条代官として赴任した男谷代官は、同年九月、「永続備え金仕法」をおこした。村々から持高に応じて醵金(きょきん)させ三〇〇〇両を集め、これに公金七〇〇両を加えて公金とし村々へ貸しつける。一〇年たったら全額回収し、元金を出資者に返し、利金は救恤(きゅうじゅつ)備え金とするというものである。この備え金はその後、東北信幕府領の村々に貸しだされた。文政十年、水内郡栗田村・権堂村、中尾村(豊野町)の三ヵ村は、中野代官所に所轄替えとなるにつき、以後も水災・凶作のさいは備え金を受けられるようにと願いでた(『市誌』⑬一六一)。代官所は、中野代官所や松代御預り所に分かれても出金した村はつぎの代官に申し送る、と返答している。

 天保期に入ると、民衆のあいだに貧富の格差がますますひろがり、社会秩序の動揺が激しくなった。天保十二年、幕府老中首座水野忠邦は天保改革を開始し、風俗の矯正と倹約、物価の引き下げ、江戸からの人返し、財政の安定化など、数々の改革令を打ちだしていった。同十三年五月、中之条代官所管下の富竹村・金箱村・上駒沢村・千田村など九ヵ村組合村々の村役人・取締役は、物価引き下げ令の請書を差しだした(『市誌』⑬一六二)。翌十四年六月、千田村は江戸奉公人の帰郷触れにたいして、惣百姓連印で請書を差しだした(『市誌』⑬一六四)。九月には「御料所改革触」が出され年貢増徴策もすすめられるが(後述)、そのさなかの閏九月二十二日、水野忠邦の失脚により、天保改革は中止となった。