幕府領の貢租

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幕府の財政を支える幕府領の年貢は、米で納められるのが原則であった。しかし山国信濃の年貢はすべてが貨幣で納められていた。高い山々に囲まれ、水運の便も悪く、江戸へ年貢米を搬送することが困難であったためで、江戸時代中期には皆(かい)金納制が確立していた。

 栗田村の史料で、幕府領の貢租制度の変遷をたどってみよう。

 寛文十年(一六七〇)十月、代官設楽(しだら)孫兵衛は、栗田村庄屋・百姓中にあて、この年の年貢を割りつけた。稲刈り前の代官の検見(実地検分)によってきまったもので、村高八〇七石五斗五升七合のうち、当年水損、御蔵屋敷分などを差しひいた有高(ありだか)七七五石四斗一升七合に年貢がかけられた。年貢高はこの有高に田方五ッ四分、新田四ッ五分、畑方二ッ八分の免率(年貢率)を掛ける厘取(りんど)り法によって算定され、取米三七三石二斗九升八合がきまった。栗田村は、これを二人の庄屋が分けて請け負い、個々の百姓から取りたてた年貢を代官所に納めた。太郎兵衛組は一年以上もかけて完納し、翌寛文十一年十一月に、代官所の手代浦部七郎左衛門・堀部勘右衛門から御年貢請取(うけとり)状が発行された(表24)。


表24 寛文11年(1669)11月栗田村太郎兵衛組年貢皆済状

 これによると、太郎兵衛が請け負った年貢高一六六石五斗八升六合(①)のうち、三分の一の五五石五斗二升九合は、一両あたり一石一斗八升の値段で金納した(②)。残り三分の二の一一一石五升七合は、ほんらいは米納分であるが「現金御売り付け」とあり、個々の百姓が村の御蔵に米で納めた年貢を資力のある地元のものが一両あたり一石の値段で買いとる、すなわちじっさいは地元で売りはらって現金化して代金納した(③)。「三分一金納・三分二金納制」とよばれるものである。三分一金納分の公定石代値段は、北信の幕府領では飯山・須坂・善光寺・松代の立冬前後一〇日間の所相場を基準として設定され、しかも水内郡は、悪米とされる高井郡より高値であった。三分二金納分は入札(いれふだ)方式をとっていた。栗田村の場合は善光寺市に近いせいか、三分一金納値段の一両あたり一石一斗八升替えより、三分二金納値段のほうが一石替えと、高値であった(米値段は一両で買える米の量で示されるから、量が多いほど安値段)。三分二金納値段は、のちには、新米が出まわって安値段となる春値段に公定され、翌年十月までの納入となった。そのため栗田村の場合は、入札方式より値下げとなり、百姓にとって有利になった。

 この本年貢のほかに、幕府特有の高掛三役(たかがかりさんやく)とよばれる小物成のひとつの「六尺給米」と、口米(付加税)を金納している。高掛三役のうちの「御伝馬宿入用」は享保十三年(一七二八)ころから、「御蔵前入用」は宝暦五年(一七五五)ころから、栗田村の年貢に登場する。

 同じ太郎兵衛組の延宝四年(一六七六)十一月の御年貢請取状によると、前年の延宝三年分の年貢は、三分二金納分のうち半分は例年どおり「御売り付け金」で代金納であったが、この年はもう半分、すなわち全年貢の三分の一は「御城米納め」として米で納めている。御城米とは、幕府が軍事・飢饉などの非常にそなえて、直轄地または特定の大名の居城に備蓄させた城詰(しろつめ)御用米のことである。信濃国では、松本・小諸・高島(諏訪市)・松代・飯田の五城に置かれた。松代藩はこの年の飢饉にさいし、城詰米一〇〇〇石のなかから五〇〇石を「種借」に拝借した。その補填(ほてん)に、幕府領の年貢米があてられたものであろう。

 なお、村役の呼称は、寛文期は「庄屋」であったが、延宝四年には「名主」と変わっている。

 一八世紀にはいって幕府の極端な財政難が表面化すると、八代将軍吉宗は享保改革を推しすすめ、全国的に年貢収納仕法の改革を展開する。その第一が定免(じょうめん)制である。毎年、稲の刈り取り前に検見をおこなって年貢率をきめていたのを廃して、年季をきめてそのあいだの年貢額を固定するというもので、村からの願いによって実施するという形をとるが、じっさいは幕府の強い指導で統一的におこなわれた政策であった。信州の幕府領では、享保九年、信濃一円代官に就任した松平九郎左衛門によって推進され、同十年に始まった。栗田村の場合は享保十三年が最初で、この年から五ヵ年定免となった。この年季が切れる同十八年、もういちど五ヵ年定免となるが、同十六・十七・二十年と立てつづけに不作・災害により破免(はめん)となる。その後、しばらく毎年検見をおこなう年免制にもどる。幕府は定免制によって、検見費用の節減と、定免切り替えごとの免率の引きあげをもくろんだが、じっさいは、栗田村の場合は享保十三年の取り米四四〇石九斗一升にくらべて、同十九年は四三〇石二斗六升一合と下がっているように、増徴にはかならずしもつながらなかったが、安定的な税収が見こめるということに利点があった。明和五年(一七六八)に一〇ヵ年定免で復活し、安永七年(一七七八)一年をとばして、以後は一〇年ごとに幕末までつづいたが、この一〇〇年間に、本年貢はほとんどあがらなかった(表25)。災害や飢饉で不作の年は、「破免」といって、検見をして作柄調査のうえ年貢率が引き下げられた。


表25 水内郡栗田村の年貢取り米・石代値段の変遷

 享保改革の年貢収納改革のもうひとつは、石代納仕法の改革である。一七世紀中に確立した「三分一金納・三分二金納制」を廃して、享保十一年、三分一・三分二値段をひとつにしたことである。信濃では「近辺城下上・中・下米平均値段」による石代納となった。値段の安い三分二値段を、高い三分一値段に合わせたのであるから、当然年貢の増徴となった。北信では、高井郡と水内郡下郷は飯山町・須坂町、水内郡上郷は善光寺町・須坂町、更級郡は善光寺町と松代町の米相場を基準とし、土地柄、米質の悪い村は石代値段を割り引いて「斗安(とやす)値段」とした。栗田村の場合は「斗安」はなかった。本年貢は定免切り替えとなってもほんの微増であったので、この石代値段の高低が、幕府にとっては年貢収入の増減、百姓にとっては負担の軽重につながるかぎとなった。

 不作年は米価が高騰するので、その高値で石代値段を決められては百姓にとっては死活問題となる。村々からそのつど石代値段の引き下げ、すなわち「安石代(やすこくだい)」願いが出され、その年かぎりすべての村々で石代値段を引き下げられた。栗田村の年貢割付状によると、天保の飢饉で、天保四年(一八三三)、破免検見によって年貢取り米を引き下げたうえ、さらに米価高騰に対処して、所相場九斗一升のところ、前一〇ヵ年平均値段の一石三斗八升に石代値段を引き下げた。天保五年は通常にもどったものの、翌六、七年と安石代となった。八年は畑のみに安石代が認められたが、田はこの年の所相場に設定され、七斗七升五合と急騰した。栗田村では弘化二年(一八四五)、四年にも安石代が認められた(表25)。

 このころから安政六年(一八五九)の開国をはさんで、米価をはじめ物価はじりじりと上がり、幕末・維新期にかけて暴騰した。それにつれ、石代値段もあがり、村々からはたえず安石代願い、斗安願いが出された。文久三年(一八六三)、米価が高騰したため年貢金も高額となり、中之条代官所支配水内郡村々では年貢上納が困難になった。そこで村々が訴願して、慶応元年(一八六五)、代官所は文久三年の年貢を「御救い石代」とし、過去五ヵ年の平均値段の二斗安とすることにして、村々に申しわたした。この請書には、中之条代官所支配水内郡荒木村・千田村(芹田)、富竹村・金箱村(古里)など五〇ヵ村がそれぞれ最寄り三~九ヵ村で組合をつくる組合村の惣代が、代官所に任命された取締役とともに連署している(表26)。当時、松代御預り所となっていた栗田村は、この訴願には加わっていない。


表26 慶応元年(1865)中之条代官所支配水内郡村々の組合村

 年貢石代の公定値段は高騰したとはいえ、終始、小作米金納値段よりは低く、その差は地主層にとっては有利となった。

 いずれにしても、近世中期には、新田開発もしだいに頭打ちとなり、幕府が田畑からあがる年貢による収入だけにたよることは、限界となっていた。宝暦七年、越後新井代官所(新潟県新井市)渡辺民部代官は、支配村々に、新田開発したばかりの見取り場、田畑荒れ所の起き返り場所、内証で開発した切り開き・切り添え地などについて尋ねた。また明和五年、中野代官所代官大野佐左衛門も、見取り場高入り・空き地開発について調べた。栗田村では村役人と立会い百姓が吟味し調べたが、いずれも年貢増徴にはつながらなかった(『近世栗田村古文書集成』)。天保改革でも、幕府は切り添え・切り開き地や荒れ地・見取り場の実態を掌握しようともくろみ、天保十四年、中之条代官所支配地を幕府勘定所御勘定柏木誠太夫が回村し検見をおこない高免をつけた。これにたいして支配村々は、松代藩主で幕府老中をつとめていた真田幸貫に駕籠訴(かごそ)をおこした(『市誌』⑬一六五・一六六)。しかしこれより前、閏九月、改革を押しすすめた老中水野忠邦の失脚によって、天保改革は中止となっていた。

 幕府は、近世中期ころから台頭してくる特産加工商品生産者や質屋などの営業者にたいして、冥加(みょうが)金・運上金を賦課して、収入源としようとした。安永元年、醤油(しょうゆ)・酒・酢などの醸造業者にたいして冥加金を課し、また油絞り運上・水車運上を創設した。栗田村でも、天明元年(一七八一)から水車運上を、天保元年から質屋冥加永(えい)を、同三年から油絞り冥加永を賦課された。栗田村の運上・冥加金は年季切り替えのたびに増額され、営業者も増えて、明治元年(一八六八)には、水車運上二口八〇文、油絞り冥加永二口一一九文、質屋稼ぎ冥加永二口一七五文、計三七四文となっている。