領主善光寺

232 ~ 233

善光寺領一〇〇〇石は、慶長(けいちょう)六年(一六〇一)七月の徳川家康の朱印状によって成立した。しかし、善光寺の実権は大勧進・大本願が握っていることは幕府にも知られていたから、幕府は同年九月に「善光寺御寺領之割」という小割(こわり)証文をあたえて両寺の分担や三寺中(衆徒二一人・中衆一五人・妻戸一〇人)への配分高などをきめた。大勧進四九〇石、大本願二三六石、三寺中二七四石の割合であった。寛永(かんえい)十八年(一六四一)大本願は、二三六石分は直接支配したいと願いでたので、大勧進は幕府へ伺いをたてた。それにたいし、幕府寺社奉行は「善光寺領千石は如来への御朱印であって、大勧進・大本願にくだされたものではない。両寺とも善光寺の配下にすぎないのに領主・地頭の気になっているのはもってのほかである」という「回達書」をつけて伺書を却下した(『長野市史考』)。しかし、事実は善光寺を直接代表する僧はほかにはいないので「租税などは大勧進が集めて大本願以下衆徒・中衆・妻戸にわけるのが通例であったが、大本願が二三六石はみずから収めたいと申しでたので、重吽公(じゅううんこう)(大勧進別当)が、これを許した」(『善光寺別当伝略』)とあるのは、表面的にはそのとおりであろう。しかし「大勧進・大本願が独断でことを決めてはいけない」という幕府の方針は変わらなかった。