大勧進は山(三)門の向かって左(西)下にある。ここは現本堂建立以前は境内の北にあたり、南向きだった。この位置は中世から変わらないらしい。大勧進は、鎌倉・室町時代の仏画などをたくさん伝来しているから、如来の留守のあいだもここを守っていた人がいたものと思われる。ただし、甲斐善光寺大勧進は信濃から移ったものではなかった。
天正(てんしょう)九年(一五八一)九月、上杉景勝は妙観(みょうかん)院(重繁)を善光寺大勧進住持に任じ、堂塔の建立(こんりゅう)につとめさせた。重吽・重慶・重昌とうけついだ。このころは代々真言宗であったが、つぎの重真のときに東叡山寛永寺直末(じきまつ)になって天台宗に転じた。この人の代まで「大勧進妙観院」と称していた。
寺領の政治をだれが中心となっておこなうかについては、寛永十九年(一六四二)の仮堂再建についての紛争で幕府はつぎのような裁許状をくだしている。「善光寺領千石のところ、町人・百姓の統治は、大本願は尼寺なので、相談のうえ、大勧進がおこなうこと、双方の和談ができないときは、幕府へ訴えること」。この決定は、その後変わりはなかった(『市誌』⑬七三)。