近世の大本願は智慶上人から始まった。智慶は尾張国甚目寺(じもくじ)(愛知県海部(あま)郡甚目寺町)釈迦(しゃか)院の出身で、甲斐善光寺三世であり、善光寺如来が、豊臣秀吉により都へ移されたときも、智慶が舞台まわしをしたらしい。慶長八年(一六〇三)前別当の栗田永寿(えいじゅ)が大本願にたのんで別当に復帰しようとしたのは、善光寺運営の実権が大本願にあったことを示唆している(『信史』⑲五二二頁)。
しかし、寛永二十年(一六四三)、天海が大勧進を天台宗に改宗させ、善光寺を東叡山末寺にしてから、善光寺運営の実権は大勧進に握られるようになった。
また、智慶が江戸に地をあたえられて善光寺を建て、元禄十六年(一七〇三)青山(東京都港区)に移転し、歴代上人は主にここに住んでいたので、寺領統治とは縁が薄くなった。しかし、幕府の大奥とは関係が密になり、善光寺に三代将軍家光夫人本理院や家光の乳母春日局(うばかすがのつぼね)の墓などが建てられ、その修理費などは幕府から交付された。室町時代には堂塔造営などは大本願の任務だったらしく、「善光寺御寺領之割」でも大工免三六石は「大本願抱(かかえ)」になっている。しかし、近世には大勧進が造営の中心となり、ことに慶運は出開帳(でがいちょう)でも、本堂造営工事でも、まったく大本願を除外するようになった。大本願役人は、大本願分の二三六石分を支配するだけになった。しかし、寺領内の屋敷も耕地も、大勧進分と大本願分とがはっきり分かれていた。大勧進も、大切なことはかならず大本願と相談してきめるという原則は守られていた。寺領の政治の中心である「役所」の会合にも大勧進役人と並んで大本願役人が出席した。