大勧進は寺名でもあり職名でもある。住職はそれぞれ院号があるので、大勧進妙観院(重真)とか大勧進戒善院(慶運)とか称するのがふつうだった。
なお、「別当」という称号は幕府・東叡山から正式にあたえられた称号でなく、「両寺別当」(『県史』⑦二〇四五)のように大勧進・大本願住職の意味に用いられたこともあった。「善光寺別当」と公称したのは慶運かららしい(同前書二〇四七)。その後は、「善光寺別当大勧進権僧正(ごんのそうじょう)等順」(念仏碑)などとも称するようになった。近世の大勧進住職は二四人、住職の平均在職年限は約一〇年である。事実上善光寺領の領主であるが、東叡山の命令で任免されるので、地位はかならずしも安定していなかった。
本堂再建に功のあった慶運は五一歳で江戸へ帰った。善光寺信仰の普及につとめ、一八〇万人に血脈譜(けちみゃくふ)を授けた等順も京都大仏養源院に転じた。
大勧進は事実上善光寺領の領主であるが、その権限は近世初期まではあやふやだった。善光寺中衆は「如来譜代」と称し、代々妻帯で血統を伝えており、寺領の統治もしていた。近世初期には、重昌(在任一六四〇~六六)・重真(在任一六六六~八〇)と二代にわたって中衆出身者が大勧進住職になった。また延宝(えんぽう)六年(一六七八)、代官高橋庄右衛門が追放されたとき、墓府寺社奉行所での争点の第一は「大勧進住職と代官とは主従であるか否か」ということだった。代官高橋(中衆白蓮坊(びゃくれんぼう)の同族)は「祖先代々善光寺の譜代で、善光寺を支配してきた」と申したてたが、寺社奉行は「代官は大勧進の家来である」という判決をくだした。
大勧進の収支は、嘉永(かえい)六年(一八五三)の予算書によると収入は一二四七両、支出は一二八八両で、住職の生活費の八四両をふくんでいた。同年の大勧進の借財は、一万三九四二両で年間収入の約一〇倍に達していた。借財は、文政四年(一八二一)では二〇〇〇両余だったから、幕末近くになって、にわかに増大したわけである。慶運が造営費の残金をもとにして始めた祠堂金(しどうきん)は、幕末にも元金が七〇〇〇両余あったが、ほとんど領民に貸しつけてあり、貸し倒れが多く、寺の運営には役立たなくなっていた。